2000年度開講 「自然科学概論」 地学分野(担当福江)レポート

あなたは誰?

通番 あなたは誰か? 何をもって、あなたの存在を妥当とするか?
01 可能姓 やりたい事が、あること
02 私は偶然の産物です。
全てが偶然で生まれたこの宇宙。 その宇宙の中に偶然生まれた惑星、地球。 その地球に偶然にも生命が生まれ、さらに時間をかけて 偶然に偶然を重ねて生まれた「ヒト」。 そんなヒトの中にも出逢いがあり、別れがあっただろう。 その中でも偶然にも私の父と母が出逢い、愛し合い、 ひとつの卵子に偶然にも選ばれた精子。 偶然にも今まで生きて来られた。
そして、それが、私。
偶然にも今の名前を与えてもらい、 偶然か必然か、大阪教育大学に在学している。
私は、「私以外の存在」をもって私の存在を妥当とする。

例えば世界に私しかいなかったら、「私」という存在は 「私」だけしか認知していないため、不十分である。 「私」という存在を十分に妥当としようとするためには 何か他の存在、例えば、挨拶を交わしてくれる友達、えさを乞う猫・・。 明らかに「私」という存在を認知している。 「私」という存在があるからこそ、そのような行動を取るのである。 従って、私は、「私」という存在を 「私以外の存在」をもって妥当とする。

03 自分は両親の愛によって生まれた両親にはかかせない宝、そして人を幸せにしたり、いろいろな経験によって成長し、現代に必要であるだろう1人の人であると思います。(それは他の人にも共通の事ですが) 親の愛によって育ち、そして人を幸せにする力を誰しも持っています。難しい事はわからないけど、人を幸せにするという存在だけで私は自分の存在を妥当だと思います。
04 私という主体は生物学的な肉体を持ち、精神的にも確かに確認できることを前提条件として、その生物学的肉体と精神的存在がともに****という主体をさすときに私は私である。 私という存在は自分が認めている「私」というものを他人がそう理解するに妥当であるとき私でありえる。それは相対的に存在するものでもあり、その個としても存在するに値する。なぜならば私という認識を他人がそう理解しない場合において、私の私たる認識は妥当ではない。しかし、その認識たる私も存在すれば他人によって認識される私もまた存在することには変わりがないからである。
05 私は、地球上で生命を持って生きている者だ。宇宙に地球が誕生し、生物が誕生した。やがて、酸素ができ酸素呼吸をする生物が誕生し、生活の場が海から陸へと変化した。そして、哺乳類が誕生し、その哺乳類の中でも直立歩行をし道具や火を使う「ヒト」が誕生した。その「ヒト」が何千年も子孫を作り出してきた。その子孫が私たちなのである。 宇宙の中で唯一酸素があるこの地球で生命が生まれたこと。
06 昔にもどっていくと先祖がいます。そして今私は幸せをもたらす橋である。 私に頼ってきてくれる人がいる。私にできる事はたくさんある。 だから、私の存在を妥当だと思います。
07 僕の名前は****です。 学籍番号は00****です。 僕を一言で言うとテニス好きです。 毎日やってもあきません。 冬休みもいっぱいしようと思ってます。 基本的に楽しければいいという考え方ですが、 たまには先も考えて行動します。 僕は今までに世間をにぎわすような事はしたことがありませんが、 僕が存在する事によって良くも悪くも 影響を受けた人が今までにいると思う。 それが僕の存在を表していると思う。
08 宇宙の話を聞くといつもこのことを考える。何十億年も生きてきた宇宙で、こん な小さい地球の中にいて、宇宙の今までの長さから考えれば自分の存在がほんの一瞬 であることが怖くなる。人は、自分は何なのか?なぜここにいるのだろう?などの答 えを見つけるために、生きていて、この世に居るのではないだろうか?と、僕は思 う。 自分にはまだ難しい。 自分のことを、誰か人の心の中に残せたとき。自分が生きていた存在していた証拠 になるから。または、自分の行動で人の心が動いたとき。他には、子どもを作る。子 孫を残すこと。それが何より自分がこの世にいたということを証明してくれる。
09 無限の広さをもった宇宙から私を見れば、私は単なる塵なのかもしれません。 ちっぽけで、もろく崩れやすいと思います。 しかし私はこの地球で、一人の『人間』として生きています。 塵や、ゴミでもありません。 しっかりとした『意思』をもった生き物であります。 簡単な言葉では表せない、複雑な『意思の塊』であると 私は自分の事をそう思います。  自分自身、恋をしている時が一番『生きているなぁ』と感じるような気がします。 恋をするために存在しているというとなんか大げさで少しおかしいかも しれませんが、でも、幸せを求めて自分が存在してるのは確かです。 何かに感動し、涙し、笑顔になり、幸せだと感じる。 人を愛し、人に愛される。 私がこの世に誕生した事も、『愛』の結晶であります。 愛から存在したのであれば、私は愛をもって存在していると思います。
10 僕は笑ったり、怒ったり、悲しんだり、たのしんだりするものです。 また、自分で考えたりします。僕はよく寝て、よく食べます。 僕はよく笑います。僕の周りの人もよく笑っている気がします。 他の人と話したり、笑ったり、助け合ったりしています。 他の人と関わりを持って存在しています。 関わりを持っているので他の人に影響を及ぼし、また影響を与えてもいます。 どんなものでも、そこに「ある」、「いる」ということは他のものに影響を 少なからず与えていることだと思います。
11 「あなたは誰か?」という問いに、私は、「私は人間である。」と答えると 思います。そこでふと、「人間」と「人類」の違いは何なのだろう?と思い、 調べてみました。「人間」とは、<ひと(a human being)>という意味と、 <人物、人柄(a chracter)>という意味があり、「人類」は、<人間。人間 を他の動物と区別して呼ぶときの言葉>を意味しているということが分かりま した。微妙な意味の違いですが、「無」から生まれた宇宙に、生命が誕生し、 絶滅と進化の中で、知性を備えた私達人間が出現してきたことを考えると、「私 達は人類である。」と答えるべきだという気がします。 “宇宙”という観点から私の存在を考えてみると、自分はとてつもなく小さな もののような気がしました。広大すぎる宇宙の片隅で誕生した、太陽系のひとつ である地球小さな星に、人類のひとりとして生きているのです。でも、約40億 年前に誕生した人類が、他の多くの生物のように滅びることなく、現在まで存在 してこれたのは、私が存在し、私の父・母の世代、祖父・祖母の世代、そしてそ れよりずっと前の世代の人類が存在してこれたからです。だから、これからも自 分が存在して、子孫を残していくことで、人類が存在し続けることができる・・。 という点に、私の存在理由があるのでわないかと私は考えました。
12 父や母の間に生まれた祖先の血統を受け継いだ存在 教師という職業を目指している点からも、誰かが生きていく中で少しでも自分の思いや考えがそのヒトに影響を与えたとしたら、自分という存在に自信が持てると思います。
13 意識をもった何かの使命(?)を持った一つの単体。 死ぬということがあるので生きている時に何かしないと死ぬ意味がわからない。 死というのがあるので今を一生懸命生きるために頑張ったりするのだと思うから。 自分がすべきであると判断するような使命感にかられることによって。 他の人から頼りにされる、または頼りにするとによって。 
14 少なくとも、“****”という名を持つ、他の誰も持っていない自我 を持っている人間、だと思っているのですが、レポートの次の項目にも 通じますが、それも絶対的なことではないかもしれない、と思っています。 何をもって私の存在を妥当とするか、ということですが、“我おもう、 ゆえに我あり”、“コギトエルゴスム”は、私にはどこか浅はかなとこ ろがある考えの様な気がして、意識がある(と思っている)ために私は たしかに“ある”、という意見にはあまり賛成できません。しかし、で は意識以外で私の存在を妥当とするものは何か、と考えたとき、いった いなにがあるあるのか、と非常に悩みます。このことは以前から時々思 っていたことで、今回、いろいろと考えてみましたが、今このレポート を書いている現在も周りが霧ばかりの様な状態で、なにも見えていませ ん。たしかに私の意識はある、と私は思っているのですが、深く考えて いくとそれさえ疑問に思えてきて、なにがなにやら分からなくなってし まいます。今の段階では、とても答えは、思いつきませんでした。
15 そして何か。そんな事考えてみた事もない。答えは色々あると思う。わたしは生物だ。哺乳類だ。そして1人のヒトであり、女である。・・・全て当たっている。全て当たり前の事だ。であるから、もっと違う角度から見てみたい。 わたしは身長が154センチだ。小柄な方ではあるけれどもヒトの目にきちんと映る事ができる。しかし宇宙の果ての果てから見れば、わたしが見る砂の粒よりもはるかに小さい。がしかし、確かに宇宙の一部である。大きな大きな宇宙の小さな小さな一部分として、この宇宙に、地球になくてはならない一つの活性要素として存在しているのがわたしなのだと思う事にする。 わたしが存在しているのはなぜなのか。なんて疑問に思わない。思う必要ないと思う。わたしが存在している事に理由なんかない。わたしは、わたしが今ここにいる事を知っているし、認めている。誰が何と言ってもわたしはいる。もしかしたらいないのかもしれない。が、わたしはいると思っているのだからそれでいい。それだけの事だ。
16 私は人間という生き物です。他の人間や動物、植物などの助けを借りて生きていま す。私は、今いろいろなことを勉強しています。そして将来は、私も他の人間や動 物のためになるような存在になります。 私の家族や友達です。私は私の両親から生まれてきて、その両親と、姉、妹と一緒 に暮らしています。それが、毎日の当たり前の生活です。学校に来ると、友達がい ます。一緒に授業を受けたり、ご飯を食べたり、しゃべったりします。それが私達 にとって当たり前の生活だからです。家族や友達の生活の中に、私という人間が当 たり前にいるということで、私が存在していると言えると思います。
17 約50億年前に地球が誕生し、原始大気とエネルギーからアミノ酸が作り出され、それが化学進化し生物体の構成物質ができた。そしてある細胞が突然変異によって多様化し、生命が誕生した。その後さらに化学進化が起こってヒトが誕生し、ヒトが人間になり、有性生殖によって生まれたたくさんの人間の中から、すごい確率で私の父と母が出会い、その間に誕生したのが私である。 一つ目は、私の身の回りのすべての人である。まず私の親だが、私は名の通り「望まれて」生まれてきた。親に必要とされ、あるべき存在とされ、私が生まれてくることを望んで「望」と名づけたと聞いた。そして今の幸せな家庭が作り上げられたのは、私の父がいて母がいて姉二人がいて私がいるからだ。もしこの家族が別のメンバーで構成されていたとしたら、その家庭にはまた別の幸せがあるかもしれないし、あるいはないかもしれないのだ。だから、私の家族は私でなければならないのであり、私の父と母と姉二人でなければならないのだ。そして友達だが、他の人ではなく私と友達でいてくれているというのは、他の人にはない「何か」が私にはあるからだと思う(良さも悪さも含めて)。
二つ目は、私の身の回りの世界である。今、時間とともに移りゆくこの「私の身の回りの世界」は、「私」が存在しているから成り立つのである。私が存在していなかったら今とは別の世界が存在するはずである。
18 私は****です。 大阪教育大学 小学校課程 理数・生活系の1回生です。 まず生まれて親が与えた名前、役場にある戸籍、大学の学生であること。 これらが形として明確に私の存在を表している。 形に出ないものでも親・友達・今までに出会った人などの頭の中に、 認知あるいは記憶という見えない形で存在している。 これらをもって私の存在を妥当とする。
19 私達は、「自然」というものの中のひとつにすぎない人間という物体です。そして、その物体は生命を持ち、感情や感覚などのさまざまな現象を持って、「自然」へ影響を与えていくものであると思います。私はその人間のひとりです。 私は自然界で、生命を持っていろいろな活動をする。これは、外からの自然現象に触れて私の精神は自分自身の活動を続けながら、外界から入ってくる現象の影響をうけ、両方がいっしょになっていろいろな状態をつくりだしていくことです。だから、こういう考えで私の存在を妥当とします。
20 私は、両親の遺伝子を後世に残すために生まれてきたモノである。私がもし生まれなくても、さほど世の中がくるったりすることも無いだろうが、うまれてきたからには何かしら周りの人に影響を与え、何かを得てこの世で唯一のなくてはならない存在になっていると思う。 私の存在が妥当かどうかは周りの人にどれだけ必要とされているかによると思う。私を好きだという友が存在し、何か私からいい影響を受けてくれる状況においては、私の存在は価値のある事であり妥当であると思う。
21 私はおもしろい事、楽しい事が大好きな人です。 友達、仲間、家族が存在している事。
22 私は・・・一言で言うと「人間」である。 自分の目先のことしか考えずに生活している 典型的な大学生である。 私の場合、物理的・地球規模的に考えるので はなく、親・友人などを含めたその他の人々 と接する事で他人と自分を比較する事により 自分の存在を確かめます。
23 人間は無数の機械と細胞を持っている。そして遺伝子を必ず持つ。私も持っているはずだ。祖先から私達そして後世の子孫へと遺伝子(DNA)はつながっている。個人個人が持っているDNAはさまざまであり私も個人特有のDNAを持っている。それは髪の毛や皮膚や血液によりみんな違うからおもしろくその人自信があらわされる。 人間というものは誰でも独自の環境を持っていると思う。私はあまり自然と接した生き方をしていないがそれなりの環境を持っている。私の住んでいる地域ではゴミの分別にかなり力をいれている。家にいるとき以外でもゴミは気をつけて捨てるようにしてる。都会でも田舎でも自然を大事にする傾向は私のなかにある。
24 私は”****”です。 私とはまだわかりません。絶対存在かというとそんなこともなく、またどうでもいいものでもない。 確かなのは私がとらえた私ではなく、他人がとらえた私なのでは!?と思います。 だから私とは他人のなかにあって始めて捕らえ得る存在です。 私を私として存在づけるものはやはり”他者”だろう。一人で家にいたら、一日中一言も喋らないこともある。そのときの私は私の存在を認める妥当な物を見出だすことができない 私の存在を確かな物にしてくれるのは他者である
25 決められた条件で動くもの。 今の自分としては皆に認められること。
26 タンポポ 困難にぶちあたってもあきらめ、努力しないこと。
27 私は人間だ。この時代を生きる18歳の学生である。性別は女で兄と弟がいる。そのせいか、性格は少し男っぽい。小心者で怖がりなため暗闇を恐れる人間だ。 私は自分自身の感情を持って私の存在妥当とする。たとえどんなに外見がそっくりな人がいても感情や気持ち、考えてることが全く同じ人はいない。今考えてることは私だけのものである。その気持ちを人に伝えることにより、自分の存在を他人に証明することができるのだ。
28 結論から言うと僕は僕でしかない。まだ、人生の中で自分を探して いる途中だが、今を生きている自分も自分の姿だから、もしあなたは 誰か?と聞かれたら、僕は迷わずに「僕は僕だ」と答えるだろう。 たぶん、名前と他人との関わり合いだと思う。まずは、名前だが物 の存在を定義するのには必要だと思うからだ。他人との関わり合いだ が、名前がついていたとしても、その名前を呼んでくれる人が存在し ないと、自分は、その世界に存在していないか存在してないも同然だ と考えるので、前記の2つをもって僕の存在を妥当とすると思う。

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