『天文月報』86巻,75頁(1993年)より
天文教育および普及の現状と直面する問題
連載第5回
危機の時代を迎えて −大学教育そして研究者の果たす役割−

福江 純 <大阪教育大学 〒543 大阪市天王寺区南河堀町4−88>

−−−−− Jun Fukue:Crisis of the Astronomical Education

 最近のいわゆる宇宙ブームとは裏腹に,天文学界を支える裾野はやせ細りつつある.このような状況は,天文学の発展にとってはきわめて危機的な状況だといえる.後継者の育成や天文学の教育・普及に対して,研究者一人一人の自覚が必要であると同時に,日本天文学会の組織的な努力が,今こそ望まれる.

1 大学入試のトレンド

 今年も試験シーズンが終わり,桜の季節−新学期を迎えた(ちょっと時期外れかな;一年遅れでちょうどよくなりそうだ).読者の中には,センター試験や2次試験などの試験監督を経験した人もいるだろう.東大や京大などでは,監督といってもせいぜい1科目程度らしいが,筆者の所属している大阪教育大学では,たとえばセンター試験の場合,まるまる2日,朝から夕まで拘束される.なかなか大変なのだが,そのかわり受験者の傾向は,モロに肌で感じてきた.何たって,今年(1992年3月)の2次試験では,受け持った試験室の50人のうち,地学の受験者はたった2人だったのですよ.これで危機感を持たない方がおかしい.
 連載第2回で示されているように,高校までの理科教育で地学が切り捨てられつつあることが,大学入試にも如実に反映しているわけだ.天文教育は,いやおそらく天文教育だけに限らず理科教育/科学教育は,いま,危機の時代を迎えていると言っても過言ではないだろう.このような時代に,大学教育そして研究者の果たすべき役割は何なのか,思うところを述べてみたい.

2 大学教育のステータス

 さてまず大学教育で何をしてきたか,何をなすべきかだが,大阪教育大学の例については,5年前に紹介し(天文月報,1987年,4月号,108頁),そこで問題点なども述べた.が,そんな報告,書いた当人以外は皆忘れていると思うし,その後,大学の組織替えなどもあったので,もう一度かいつまんで紹介しながら,大学教育でなすべきことについて少し議論してみたい.
 大阪教育大学の教育学部教員養成課程に入学してきた,将来,小学校や中学校の理科教員になろうと志している学生は,天文学に関して,以下のような授業を受ける機会がある.
 まず講義科目についてだが,最初に,1回生か2回生で受講する必修の「地学T」で,半年間,天体の力学や恒星物理など天文学の基礎的な話を聞く.つぎに3回生対象の「天文学」で,1年間,星の内部構造論,近接連星や活動銀河など活動的な天体に関する講義を受ける.さらに4回生の「地学V」を受講した場合は,銀河系の力学の話を聞くことになるだろう(これらの内容は今年のものであり,講義内容は毎年少しずつ変化する).ただし,課程や専攻にもよるが,上級回生向けの講義ほど受講者は少なくなり,全部の講義を受けて卒業するのは天文専攻の学生ぐらいである.
 講義などでは,同僚の横尾武夫氏と始終議論しながら,できるだけ体系的に,総合的な現代宇宙像が呈示できるようにカリキュラムを考えている.講義なんて適当にやっとけばいいんだ,などという“暴論”を吐く大学教官もいるが,とんでもない話である.きちんとカリキュラムを考えて,体系的な話をすべきだ.スタッフが少ないから,専門分野が違うから,全体をカバーできない,などというのは,言い訳にすぎない.基礎的な分野はスタッフが勉強して教授すべきである.
 もっとも体系的な話というものは,しばしば退屈になりがちで,はたして学生がどれほど興味を持って聞いてくれているのか,不安になることも少なくない.そこで,話が単調になるのを避けるために,しばしば講義中に問題を課して,学生の目を覚まさせるようにしている.
 またこれも天文教育に限らず,講義一般にいえることだが,講義形式というものにも問題がある.一言で言えば,板書で行う講義というのは,きわめて効率が悪い.1年間で伝えられることはほんのわずかしかない,というのがここ数年の実感である.そこで,いままでも資料のプリントは配っていたが,今年からは,講義の内容もプリントにして配布している.ま,これはこれで大変だが.
 つぎに実験科目の方だが,必修の「地学実験」では,約1/4年,演習書『宇宙を解く』を使って室内実習を行っている.選択の「地学実験」では,半年,演習書や実習書を使った自由な実習を行っている.さらに選択だが多くの学生が受講する「地学野外実習」では,2泊3日の合宿をして,実習書『宇宙を観るT』を使った観測実習をしている.  これらの実験科目では,まず望遠鏡に触ることから始めて,望遠鏡で天体を観るという経験をすることにリキを入れている(大半の学生は,望遠鏡で天体を観たり望遠鏡に触ったりしたことがない).もっとも天候などに左右されるので,思うにまかせないことも多い.
 卒業研究で天文学を専攻した学生は,上記以外に,ゼミナールや個別指導を受ける.
 以上,理念としては,天文学の基本的な話から現代天文学の最先端の話題まで,幅広く知ってもらい,また同時に,望遠鏡などを使って,実際に宇宙に触れてもらうことを目標に天文教育を行ってきている.さらに天文学を通して,科学の楽しさにも触れてもらいたいと考えている.このような理念はいいと思うのだが,カリキュラムや設備や予算がきわめて窮屈な上に,スタッフの能力(体力)の限界もあり,できることは限られている,というのが実状かも知れない.
 天文学を教えられる小中高の教員がいない→生徒が天文学を学べない→天文学を知らない教員が増える・・・という悪循環は,大学教育で断ち切らなければならないのは明らかだ.そのためにも,大学で天文教育を行っているスタッフのさらなる自覚が必要である.そして,それ以上に重要なのが,天文スタッフのいない大学のポストを開拓していくことである.言うは易く行うは難し,だけどね.
 大学教育で使うテキストについて,5年前の報告でもその必要性を強調したが,ここでも一言触れておきたい.
 テキストの貧困な状態に対して,われわれも手をこまねいていたわけではなく,この数年間,大阪教育大学と愛知教育大学の天文スタッフを中心に,テキスト作成への組織的努力を続けてきた.そしてそれらの結果は,
 横尾武夫編
 『宇宙を解く』恒星社厚生閣(1988年)
 『宇宙を観るT<初級篇>』同(1989年)
 『宇宙を観るU<応用篇>』同(1991年)
にまとまった.このうち『宇宙を解く』は室内実習のためのテキスト的演習書であり(現在,大幅な改訂作業中),『宇宙を観るT&U』は望遠鏡などを使う実習書である.
 しかし,しかしだ.大学教育とくに学部教育のためのテキスト類は,質・量ともに絶対的に不足しているのが現状である.たとえば,(文化系向けに書かれた)加藤万里子女史の『100億年を翔ける宇宙』を,理科系向けにアレンジしたようなテキストが欲しい.また「天体の力学」を基礎から説き起こすようなテキストも欲しい.“流体力学的な宇宙像”を理解できるようなテキストも欲しい.とにかく日本にはテキストが少なすぎる.大学などで教育経験のある研究者の奮起を促したい.
 ・・・そうそう,最近,天文学の入門書や啓蒙書の類が,比較的たくさん出版されるようになり,第一線の研究者もどんどん筆を取り始めているいるが,このことは歓迎すべき事態だ.もっとも,専門家にしか読めないような,難しい“入門書”も少なくない.研究の片手間に書くのではなく,書く以上は本腰を入れて,文章や内容はもっと推敲して欲しい(人のことは言えないけどね).

3 研究者のライトスタッフ

 本題から少しそれるかも知れないが,この機会に,日頃思っていることを一言いいたい.
 大学やその他の研究機関に所属する研究者の職務は,研究と教育(啓蒙などを含む)そして大学運営である.とくに研究と教育は車の両輪のようなもので,研究機関の違いや個人差によってどちらかに若干のウェイトがかかることはあるだろうが,基本的にはバランスがとれていなければならない,と筆者は思う.そしておそらく,このことに対して,表だって反対する研究者はいないだろう.
 ところが現実はどうか.日本の研究者には研究至上主義的な傾向があって,研究以外のことは切り捨てる,というような人が少なくない.そのような人は,しばしば教育や普及に無関心であり,また後継者を育てていこうとする気もない.これはイケナイ,と思う.
 ま,確かに,優れた研究をしている一流と呼ぶべき研究者は,天文学を押し進めるために研究に専念しても構わないと思うし,実際,そうして欲しい.ところが,これは経験則だが,天文学をリードするような一流の研究者はまた同時に,教育者や指導者や組織者としても一流であることが多い(研究のアクティヴィティは教育のアクティヴィティと連動しているようだ).
 一方,これも経験則だが,“研究”が忙しくて教育や啓蒙に力を注ぐ暇がないといっているような研究者に限って,同業者の目から見ても面白くない,したがって学問的にもたいした価値のない研究しかしてないのが事実である.自分が本当に面白い研究をしていれば,その情報を他の人に伝えたいと思うのが,人間的な反応ではないだろうか.教育や普及に理解のない人は,また教育や普及の歓びを知らない不幸な人でもある.
(そういえば,国立天文台のスタッフから聞いたことだが,アマチュア向けの雑誌に記事を書いたりすると,やれ売名行為をしているだの小遣いかせぎをしているだの,そういうことをいう人が(国立天文台には)いるそうだ.聞いて,唖然としてしまった.そういう方々はいったいどんな素晴らしい研究をしているのだろう.暇ができたら,一度,天文学者の業績調査でもしてみようかと思うこの頃である.)
 自分の研究のことしか頭にない,近視眼的な研究者の例はまだある.たとえば研究論文をパブリ/PASJに出さずに,外国の雑誌に出す研究者が後を絶たない.よーするに,自分の研究さえ引用されればいいわけだ.日本の天文学を盛り立てていこうという気なんて,はなっからないのである.大体,日本天文学会で発表するという恩恵を受けておきながら,論文は外国誌に投稿するというのでは,義理を欠くでしょうが! 研究者のライトスタッフという以前に,人間としての資質に欠けていると言わざるを得ない.
 もちろん,何が何でも絶対パブリでないといけない,などと言っているわけではない(筆者自身,外国誌に投稿することもある).とくに若い人など,たまに外国誌で武者修業をしたりすることはいいと思うし,外国で行った研究ならばそこの雑誌に出すのが礼儀だろうし,掲載費の問題など,その他いろいろな理由でパブリに出しにくいこともあるだろう.しかし日本で行い,天文学会で発表したような研究は,原則的にパブリに投稿するのが筋だと思う.
 もう一言いえば,外国誌に投稿しないと読まれないような論文は,そもそもたいした論文ではない! 逆に,質の高い論文なら,パブリに出しても十分引用される.研究者としてのプライドがあるのなら,パブリに出しても堂々と引用されるようなレベルの高い論文を書くべきだ!
 えー,ちょっとボルテージが上がってしまったが,研究者イコール身勝手な人間,世間知らず常識知らずの人間,でいいんだろうか.象牙の塔の中だけに閉じ篭らずに,もっと地域社会,一般社会−いわゆる世間というもの−へ出ていき,天文学を裾野から押し上げていくために,いくばくかの努力を払うべきではないだろうか?
 天文教育の危機の時代に,研究者のライトスタッフとは何か,いま一度,考えてみて欲しい.

4 コーダ:天文教育のフューチャー

 だんだん何がなにやらわからなくなってきたので,もう一度,最初に戻ろう.
 近年,高等学校で地学を履修する学生はとみに減ってきている(連載第2回参照).物理についても同じである.またその結果,最初に述べたように,入試などでも,地学や物理を選択する学生はどんどん減少してきている.つまり高等学校や大学で,天文学・物理学を学ぶ人間がいなくなりつつあるのだ.これは天文学の将来にとってはきわめて憂慮すべき事態ではないだろうか.少なくともそのような現場を知っている関係者は,非常に危機感を抱いている.この点,日本天文学会ではどうも危機感が感じられず,認識がまったく甘いのではないだろうかと危倶している.空(ディスプレー)を眺めてボーとしている間に,天文学界の裾野はどんどんやせ細っているのですよ.
 確かに巷では宇宙ブームだが,これは所詮ブームであり,天文学や物理学を系統的に学ぶ人間が増えていることを意味しない.また大学院の入学定員を増やしていけば,あるいは(天文学プロパー以外も含め)ポストが増えていけば,表面上はプロの研究者の数が増加するようにみえるかも知れない.しかし,高等学校や大学で天文学を履修する学生が減っているという現状では,天文学界へ入って来る人間の母集団そのものが小さくなってきており,実は,優秀な人材は他の分野へ流れてしまった後なのかも知れない.
 このような危機的な状況を一人一人がまず認識して欲しい.そして天文学界の裾野をバックアップしていくために考えられる限りのことを,個人の努力だけに頼らずに,日本天文学会として組織的に実行していただきたい,というのが,とくにここで主張したい点である.具体的にどうするかは,天文学会内にワーキンググループでも作って,検討すればよろしかろう.
 ことは天文学界全体の問題である.今後,天文教育や天文普及をどのように支援していくか,日本天文学会がイニシアチブをとり,天文教育関係者や社会教育関係者と協力して,天文学界全体の将来を100年の計で考えて欲しいものだ.“広い視点”,“長い目”というのは,宇宙を相手にしている天文学者の得意とするところである.高校生・大学生やアマチュア・一般など,天文学界の裾野を大切にしていくことは,長い目でみれば必ず,プロの研究者を含め天文学全体の向上に跳ね返ってくることだと信じているが,いかがなもんだろうか?