
それほどマンガを推奨していたわけではない両親が、鉄腕アトム(カッパコミックスだったか大判のもの)だけは毎月買ってくれていました。昭和31年生まれの筆者にとって、小さい時分、鉄腕アトムはマンガのすべてであり、その後も、火の鳥をはじめとして手塚マンガは、筆者の世界観を広げ人格形成に大きな役割を果たしてきました。訃報の知らせを聞いたときはあまりピンとこなかったのですが、時間が経つにつれ無念さがじわじわとこみ上げてきます。悲しいというより悔しい気がします。
ところで筆者の人生はかつてただ一度だけ手塚氏と交差したことがあります。その話を中心に少し述べてみたいと思います。
手塚氏はよく知られているように大阪出身で、小学校は大阪府立池田師範附属小学校を出ておられます。この池田師範学校というのは筆者の勤務先の大阪教育大学の前身校で、現教養部があるところです。手塚氏が通っておられた当時の建物もまだ残っているらしいです。また筆者の同僚の先生がやはり大阪の池田市出身で、その先生が子供の頃、先生の実家に下宿していた人が手塚氏の友人で、その人のところへ手塚氏がマンガの生原稿を持ってこられたのをそばで見ていたこともあるそうです。
さて大阪の四ツ橋というところに、大阪市立電気科学館というプラネタリウム設備を持った社会教育施設があります。このプラネタリウム設備は日本で(東洋でも)もっとも古いものの一つで、1937年から公開されています(大正15年生まれの手塚氏が12歳ぐらいの頃)。手塚氏がその当時を回想した文章が、電気科学館のサークル「星の友の会」が発行している機関誌「うちゅう」に掲載されています。手塚氏は、演題が変わるたびに毎月プラネタリウムへ通ったそうです。
その電気科学館が開館して創立50周年となった1987年4月4日、手塚氏を迎えて記念講演会が開催されました。講演の内容は、プラネタリウムの思い出や電気科学館で売っていた昔のお菓子の話からはじまって、宇宙人はいるかとかナスカの地上絵の話、イースター島のモアイのこと、戦争と地球の未来のことなど、約1時間にわたって本当に熱心に語られました。手塚氏の人間性豊かな哲学と科学的な考え方とに裏打ちされた話で、他の人の話を聴いてあれほど感動したのは、後にも先にも、手塚氏の講演だけです(イースター島の話などは、『手塚治虫ランド』にその種のエッセイが出ています)。
写真1がそのときの手塚氏の講演の一こまです。これはナスカの地上絵の話をされているときです。この講演は電気科学館のプラネタリウム室で行われました。ちなみに写真2が手塚氏が何度も足を運ばれたカールツァイス社製のプラネタリウムです。なお現在四ツ橋にある電気科学館は、老朽化などのため、10月から中之島へ新築移転することになっています。プラネタリウムもコンピュータ制御の味もそっけもないものになると聞いています。それに伴い、写真2の旧きよきプラネタリウムは5月に引退するそうです。まるで手塚氏の後を追うがように。
講演後、手塚氏は、電気科学館内で講演の世話をされた科学館天文室の人たちと雑談されたのですが、幸運にも、先に述べた同僚の先生と筆者の二人もその場に混ぜてもらうことができました(ほとんど押しかけたのですが)。そのとき同僚の先生が色紙にサインをお願いしたのですが、名前だけを書いていただくつもりで10枚ほど差しだしました。ところがなんと手塚氏は、色紙の一枚一枚に、ご自分の名前だけでなくキャラクターの似顔絵まで描いてくださったのです(写真3)。
これには感激しました。それも2重の意味で感激しました。まず、講演後で疲れておられたであろうにもかかわらず、いやな顔一つ見せずに10何枚もの色紙に“サイン”をされたこと。マンガ家の“サイン”は絵も含めてなんですね。それを知っていたらあんなにたくさん頼まなかったと、同僚の先生も後でものすごく恐縮していました。まあ、おかげで筆者も一枚分けてもらえたのですが。手塚氏の大きさをかいまみる思いがしました。
またもう一つは、キャラクターを描く筆さばきが、まさしく神技だったこと。アトムがサファイアがレオが、目の前でつぎつぎと生まれていくのを口をあんぐり開けて見ていたと思います。芸術方面には疎くて芸術とは何かを語る資格などない筆者ですが、もし芸術が何かをあえて聞かれれば、あれこそまさに芸術なのではないでしょうか。写真4がそれらの“サイン”です。
最後の写真は、手塚氏がタクシーを待たれている間に一緒に写っていただいたものです。手塚氏のにこやかな笑顔に比べ、筆者の方は緊張でカチンコチンでした。この後で握手をしてもらった手は大きくて本当にあったかかったです。
筆者などがあらためて言うまでもありませんが、手塚マンガにこそSFの原点があったと思います。その手塚マンガに生で触れることのできた幸せな時代でした。だからこそ、手塚マンガの精神のほんの一部でも、受け継ぎ後世に語り継いでいくことは、手塚精神にリアルタイムで接することのできたものたちに課せられた義務だともいえます。 1989年 4月 1日