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『明月記』とは,小倉百人一首の選者として知られる鎌倉時代の公家の藤原定家による,治承4年 (1180年) から嘉禎元年 (1235年) までの56年間にわたる自筆日記です.南北朝時代の頃から明月記と呼ばれるようになりました.公的な記録には残りにくい当時の一般社会の様子を知ることができる史料として国宝に指定されています.また天文学に関しては,建仁四年 (1204年) 2月に京都からも見えた低緯度オーロラである「赤気」や,夜空に突然現われる彗星や超新星のことを指す「客星」の歴史的記録が存在することで国際的に知られています.
さて,寛喜二年十一月一日 (1230年12月6日) に彗星を目撃した定家は,客星の出現と現世の吉凶との相関に興味を持ちました.陰陽寮には本邦における「天文」の記録が残されていたため,その翌日に出入りの陰陽師である安倍泰俊に過去の客星の出現記録を照会しました (ちなみに安倍泰俊の先祖にあたる有名な安倍晴明も陰陽寮の天文博士の肩書を持っていました).
そして定家の照会からわずか6日後の十一月八日,客星の古記録8例をまとめた報告書が陰陽寮から返書されたところ,定家はその日の日記 (当時なので冊子ではなく巻物) の途中に陰陽寮からの報告書をそのまま継ぎ足し,日記の一部としました.そのため,客星記録の部分のみ筆跡が全く異なっています.さらに報告書の筆跡も2人分あり,前半は定家の記述からして安倍泰俊による返書の本文,後半はおそらく陰陽寮の別の職員がまとめた過去の8つの客星の記録からなっています.また『明月記』は当時の公式文書に用いられていた上部に2本線,下部に1本線を引く書式である「具注歴フォーマット」に従っていますが,客星記録の部分はそうなっていません.つまり『明月記』に記載された8つの客星記録は定家が自分で書いたものではありません.
『明月記』寛喜二年十一月八日の客星記録のタイトルを「客星古現例」と紹介する著述が散見されますが,正しくは「客星出現例」です.すなわち「古」に見える文字は「出」のくずし文字です.定家の自筆原本が伝わる時雨亭文庫を管理する冷泉 (れいぜい) 家もそう証言しているので間違いないでしょう.
「客星出現例」の8つの記録のうち,寛弘三年 (1006年),天喜二年 (1054年),治承五年 (1181年) の3つは超新星爆発で,残りの5つはおそらく彗星です.なお定家は1162年生まれなので,これらの客星のほとんどは定家が生きていた時代よりもはるか前のできごとです.手書きのデータベースしかない時代に,過去数百年におよぶ客星の出現記録がすぐに出てくる陰陽寮の能力は考えてみれば驚くべきことです.
『明月記』寛喜二年十一月八日・全記載内容 | |
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八日 乙未 霜凝 天晴 北山雪白 客星事 依不審問泰俊朝臣 返事如此 暁夕東西之條驚而有餘 | (定家による日記の部分) |
客星一昨日夜前全現候了 出現以後去二日陰雲不見候 其外者天快晴 連日見候 而此両日者無引運 天暁見艮方候 暁夕東西出現候之條以外候 | (陰陽寮からの報告書の前半・第1の筆跡) |
客星出現例 | (陰陽寮からの報告書の後半・第2の筆跡) (タイトル) |
皇極天皇元年秋七月 甲寅 客星入月 | (642年の客星の記録) |
陽成院貞観十九年正月廿五日 丁酉 戌時 客星在辟 見西方 | (877年の客星の記録) |
宇多天皇寛平三年三月廿九日 己卯 亥時 客星在東成星東方 相去一寸所 | (891年の客星の記録) |
醍醐天皇延長八年五月以後七月以前 客星入羽林中 | (930年の客星の記録) |
一條院寛弘三年四月二日 癸酉 夜以降騎官中有大客星 如螢惑 光明動耀 連夜正見南方 或云 騎陣將軍星變本體増光歟 | 1006年5月1日の夜に大客星が騎官に見えた.螢惑のように明るく光り輝く.ある人が言うには騎陣将軍星が明るくなったのか.
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後冷泉院天喜二年四月中旬以後丑時 客星出觜参度 見東方 孛天関星 大如歳星 | 1054年5月下旬以降の午前2時頃,觜や参と同じ赤経に客星が現れた.天関星付近にある.明るさは歳星のようだ.
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二條院永萬二年四月廿二日 乙丑 亥時 客星彗見大微宮事 | (1166年の客星の記録) |
高倉院治承五年六月廿五日 庚午 戌時 客星見北方 近王良守傳舎星 | 1181年8月7日の夜に客星が北の空に見えた.王良に近く伝舎を守る.
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午終許心寂房來 事外付減之由加詞 但惡血之充満非飼蛭時極難治云々 常隨給侍之小婢 依母病危急行南京 老病之最中失手臂之便 | (定家による日記の続き) |
京都市上京区から見た天喜二年七月七日午前3時の南東方向の星空
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おうし座ζ星のすぐ北の明るい光源が SN 1054
で,現在はこの位置にかに星雲 M1 が存在する.
この客星記録は1934年に神戸の貿易商・アマチュア天文家の射場保昭 (いば やすあき) によってアメリカの『Popular Astronomy』誌で世界に紹介され,かに星雲として知られるおうし座の超新星残骸 M1 と1054年に出現した超新星との一致が決定的となった経緯があります.また歴史上,肉眼での目撃記録が残る超新星 (SNe 185, 386, 393, 1006, 1054, 1181, 1572, 1604) のうち3つの記録が『明月記』に存在することになりますが,これはおそらく世界で唯一の例です.ちなみに1181年の超新星については鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも記録がのこされています.また時代は全く異なりますが,ヨーロッパで詳しく観測された1572年のカシオペヤ座の超新星 (ティコの新星) と,1604年のへびつかい座の超新星 (ケプラーの新星) の記録が日本に残されていない理由はわかっていません (戦国時代だったから?).
なお,天の川銀河内では1604年以降の400年以上にわたり,超新星の出現の記録は残されていません.ひとつの銀河における超新星の発生頻度は50〜100年に1個程度とされています.そして天の川銀河内でも400歳より若い超新星残骸はみつかっていますので,なんらかの理由 (たまたま太陽と合の時期に発生した?など) で記録に残されなかったと考えられます (関連事項:次に超新星になりそうな星は?).
松本 桂 (大阪教育大学 天文学研究室)