『パリティ』16巻,58頁(2001年)より
education
当節学生自分的存在理由
福江 純

せっかく新世紀になったのに、昨今の世の中、理科教育・科学教育に関しては、先行き暗い話が少なくない。そんな折、マルチメディアコンテンツを使った講義の中で、最近の学生気質というか哲学観の一端に触れることができたので、本稿で紹介したい。一服の清涼剤になるかどうかはわからないが、ほんの息抜きにでもなれば幸いである。

新世紀教程

 知っている人も少なくないだろうが、教員養成系大学・学部はいろいろと大変なようだ。一つには少子化に伴って学生数が減るため、(教える側の)先生も少なくていいそうで、その結果、学生定員の減少や教官の定数削減の嵐が吹き荒れている。20人学級にでもすりゃいいのに、文部なんとか省がアホでケチだから、相変わらず教育行政がなってない。

 も一つは、指導要領の改訂に伴って、「総合学習」とかが新設され、大学でもカリキュラム改正が年次進行している(2001年次で2回生までカリキュラム改正が進む)。指導要領の改訂のたびに思うのだが、 “問題発見学習”とかなんとか、指導要領に謳われている内容自体はそれほど悪くはない。ただ、具体的に何をすべきかがわからずに、学校現場は今回も大混乱状態のようだ。ま、現場の人間の力量がないといえばそれまでだが、でも割り喰うのは教えられる側だからなぁ。ずいぶん前に理科と社会を一緒くたにした「生活科」ができたときも、いったい何していいかわからずに、現場は大混乱になった。小学校などでのその後はいざしらず、教育系大学ではいまだに「生活科」の講義はエエカゲンのようにみえる。“問題発見学習”に限らないが、できる人間は指導要領で謳われる以前にすでに取り入れているだろうから、そういう人たちのノウハウを活かせるようにすればいいのに、とも思う。

 ま、ともかく、こういう状況下で、うちの大学でもカリキュラムが改正され、改廃新設など講義科目が整理されつつある。もっとも、たとえば、従来は2・3回生開講だったパソコン演習の科目が、やっと1回生に降りたのなんかはいいとして、(学生数・教官数の減少に伴い)専門科目の講義や実験は減らさざるを得なくなり、こんなんで大丈夫かな、という不安は大だ。実際、地学分野で言えば、新カリキュラムでの講義時間数は、必修の講義が半年×2で、1年分しかなくなってしまった。 10年前ぐらいは丸々2年分あったのが、そのうち1年半になり、そしてとうとう1年だけだ。高校でほとんど地学を履修していないことを考えると、この必修の講義では高校地学のレベルの講義しかできないだろう。となると、地学専攻の学生以外は、高校レベルの地学の講義しか受けずに卒業するわけである。地学以外の理科他分野でも状況は同じだし、おそらく他大学でも似たような状況で、日本の将来がいささか心配である。

自然科学概論

 さて新カリキュラムでは、理系向けの共通科目として、1回生向けに「自然科学概論」や「自然科学教育史」という科目が新設された。1回生(フレッシュマン)向けに、自然科学の面白さを伝える科目が必要だと主張してきたので、前者の「自然科学概論」は、講義題目に関する限りは、その主張に沿ったものではある。しかし、舞台裏的には、単位数の帳尻合わせでできたような側面も否めないようで、卒業要件の単位数と必修選択の割り振りとの苦渋がある。また理系向けとはいうものの、主に数学科や家庭科向けで、物化生地など理科プロパーの学生向けではない(数学科や家庭科向け自体はいいことで、それにプラス、理学科向けであっても欲しかったということ)。さらに担当者も、物化生地からの寄せ集めだし、そもそも、講義のコンセプトもあまり明瞭ではない。もっとも、これは他の新設科目についても同様で、「理科教育内容学」なんちゅう、これまたわけのわからん科目ができていて、 2001年度には担当になってしまったりする(笑)。講義すること自体は構わないが、講義全体として、また他の講義との関係として、なかなか有機的に組み合わさったカリキュラムにできないのは、力及ばずで残念ではある。

 とは言うものの、幸か不幸か、「自然科学概論」での地学の持ち時間は3回。この機会に、マルチメディアコンテンツを使った講義を試みることにした。一般向けの講演などでマルチメディアコンテンツを使うことは何年も前から普通になってきたが、ぼく自身が大学の講義で使用したのははじめてである。マルチメディアコンテンツの制作は、とても手間暇がかかる。今回もいきなり制作したわけではなく、内容については、一般向けの講演コンテンツを転用したり、カラーOHPのスキャニングをしたり、図版などの取り込みをしたり、以前から少しずつ準備してきていた。それらの素材を、

  1 宇宙誌 −ここはどこ、わたしはだれ
  2 ブラックホール宇宙 −ブラックホールの常識のウソ
  3 地球誌 −どこからきて、どこへいくのか

という形で、3回分に整理したものを使った。

 マルチメディアコンテンツの利点は、容易に想像できるように、綺麗でビジュアルな素材を、これでもかこれでもかと、提示できることだ。百聞は一見にしかずで、言葉や板書の比ではない。動画などが提示できることを思えば、カラーOHPなどでさえ、マルチメディアコンテンツの相手ではない。

 一方、問題点は、準備制作にたいそう時間がかかること。また講義の前後で、パソコン+液晶プロジェクターの設定と撤収に、それぞれ10分ほどかかることがあげられる。液晶プロジェクタも大学のはまだ重くて、非力な自分としては、毎回台車で運んだもんだ。プロジェクタやパソコンやケーブルの束や資料などを積み上げた台車を、研究室から講義棟までゴロゴロ押していく姿は、なかなか哀愁が漂うものがあっただろう(笑)。スクリーンに投影する方式の場合、スクリーン画面が見やすいように、教室の前の方のカーテンは閉めたので、睡眠が多少誘発された可能性もある。しかし、スライドやOHPに比べれば、液晶プロジェクタは光量が高いので、教室全部を暗くする必要がないのはありがたい。

 一番の問題としては、どうしても話が一方通行になりがちなことだ。もちろん、これはマルチメディアコンテンツに限らず、多人数向けの講義ではつねに問題になることであり、ぼく自身はいまだ解決できていない。いや、根本的な解決策はわかっている。それは“話芸”を磨くことである。が、人を惹きつけるような話ができるかどうかは、なかなか努力だけでは解決しないモノがある。『つかみの研究』なんて本を読んで、おおなるほど、と思うことは多々あっても、それがおいそれと実践にはつながらないとこが悲しい。 “話芸”とか“話術”というものは、天賦の才に依存する部分もあるようで、ぼくにはかなりハードルが高く、いまだ解決できていない問題なわけだ。今後も努力するしかあるまい。

当節学生自分的存在理由

 さて講義の結果だが。受講生は30人ぐらいで、まぁ適当だろう。1回生だということもあるだろうが、受講態度は割とまじめで、一所懸命聴いている学生も少なくない。もっとも寝ている学生もいて、ちゃんと聞いているのは半分くらいかなぁ。ただ、3回を通じて、私語はあまりなかったし、講義中の携帯音もなかったようだ。

 この講義では、知識や技術を覚えることではなく、(だいたい、それだけの内容を紹介する時間もなかったし)、世界観・宇宙観について、少し考えて欲しかった。さてまた、講義の性格上、試験はもちろん通常のレポート課題も課しにくい。かといって、出席を取るだけでも芸がない。そこで、いままで専門の講義では一度も問うたことがなかったが、一度は問うてみたかった<哲学的な>質問をした。また最近は在学生全員がメールアカウントをもらうなど、学内の環境も整備されてきたので、自分なりに考えた答えは、紙のレポートではなく電子メールで提出してもらった。ちなみに、携帯やプロバイダからの発信が、学内アカウントからの発信と同じくらいあった。

 まず、宇宙の誕生から生命の発生までを概観した初回には、
・あなたは誰か?
・何をもって、あなたの存在を妥当とするか?
の2点を尋ねた。テーマを出すときに、“あなたは誰か、とはいっても、名前を訊いているわけじゃないですよ”と念を押したけど、確信犯かどうか、自分の名前を書いているのが数人いたのは、まぁいいとしよう。“あなたは誰か?”という問いに対して、多かった答えは、ヒトや生物などの遺伝的ルーツから自分までを辿るものだった。まあ、妥当なところだろう。同じ年なら、ぼくも似た回答をしそうだ。意思や意識に触れた回答もあった。これもわかりやすい答えだ。自分が誰かはよくわからない、という回答も少数あった(これはもっとあってもいいような気がしたが数人だった)。自分の性格評価をした回答もあった(回答#27)。質問の意図とは少しずれているが、自分の性格付けを端的にまとめたもんだと思う。一番笑ったのが、回答#21だ。説明の必要もあるまい。

 同時に尋ねたのは、“何をもって、あなたの存在を妥当とするか?”という、いわゆる存在理由(レゾンディートル)問題だ。こちらの方は、大多数が、自分以外の他者の存在をもって(自分の存在を)妥当とする、という答えであった。ヒネリもなにもない直球だが、非常にわかりやすく、納得できる答えではある。おそらくぼくも同じような答えになるだろう。少数であるが、意識とか感情など、自分自身を根拠として、唯我論的な立場から、自分の存在を妥当とするという意見もあった。

 しかし、考えてみるに、1回生という年齢を考えると、哲学的な問題はまだ本気で考えたことはない学生も少なくないだろう。実際、感想でも、そう書いてあったし、ぼく自身もそうだったと思う。でも、集まった答えを並べてみると、それなりに哲学的な意見が出ているのは面白い。あれこれ知識を詰め込まなくても、人間というのは、本来的に哲学的な生き物なのかもしれない。 ちなみに、自分的には回答#09が一押しである。

 2回目のブラックホールの話のときは出席を取るだけにして、3回目の地球システムの過去・現在・将来を概観した回で、
・(あなたは)どこへ行くのか?
・それは何故?
の2点を尋ねた。ま、一応、講義の中で、“どこからきて”の部分は眺めたので、形としては、それを受けてということになる。こちらも、面白回答がいろいろあった。シンガポールだとか服屋さんだとか、近日中に行くつもりの場所を書いたものが数人あったのは、まぁやはりいいとしよう(でも、服屋さんは、けっこー笑ったが)。これらの問いに関しては、回答表現の仕方が非常に多様なのでまとめにくいが、ひっくるめておおざっぱには、大部分の意見は、人類や生命の大局的な未来の方向と、自分の人生や魂の行く末とに大別できるようだ。自分の人生設計として非常に地に足がついた回答もあったし、神の概念などずっと向こうを見ている回答もあった。ユニークなのは、回答#12の、“流れに身をまかせてなるようになる”という答えだ。いや、実は、ぼく自身の人生哲学が、まさにこれなので、なかなか共感を呼んだのだ。でも、ぼく自身が、“なるようになる”、という生き方を選択したのは、不惑ぐらいからなので、1回生の時点でこんな意見を吐くとは。それまでにすごい苦労をして達観したのだろうか?それともただのアホなのかもしれん。

 3回目には、同時に、講義に対する感想もメールしてもらった。感想は総じて好評である。もちろん、レポートにはあまり悪口は書きにくいものである。だから、感想を出してもらうときはいつも、“提出のみ評価するので、内容はできるだけ批判的に書いて欲しい”と約束している。批判的なメールも少数ながらきちんと出ているので、総体的には好評だったという判断は妥当だろう。好評だった理由も明白だ。一つは、パソコンとプロジェクタを使って、マルチメディアコンテンツを見せるという形式のインパクトが大きかった。こういう方式は最近ではそれほど珍しくないのだが、まだまだ免疫のない学生が少なくなかったようである。肝心なのは形式ではなく内容だが、理由の2番目としては、内容的にブラックホール話が受けている。まぁ、ブラックホールネタは素材も揃っているし、テーマ的にも当然といえば当然である。

 批判点の方をみてみよう。まず、一人三講ずつという形式が、切れ切れでわかりにくいという批判がある。これは、「自然科学概論」を物理・化学・生物・地学で分担し、かつ相互の有機的なつながりをまったく考慮していない点への批判である。これについては、教官内でなかなかそういう雰囲気にならないのが残念であるが、担当者同士で打ち合わせたり順序を工夫するなど、今後検討すべきである。また、物理と化学分野は実験を交えた(回答#18)というのは、今回の感想で始めて知ったのだが、そうか、そういう手もあったか(笑)。 30人程度でできる面白い室内実験は地学分野でもあるが、3時間という枠内では、悩むところではある。内容が難しすぎたという批評も数例あった(回答#16、#25など)。まだまだ素材の噛み砕き方が足らなかったようだ。レポート課題が哲学的で難しかった(回答#23)というのは、我が意を得たりである。あんなテーマがやさしいはずないもの!もっと身近な話題で実感できるものがいいとか、小学生に教えることを前提にした内容にというコメントは、なかなか難しい問題だ。地学に限らず学問は、しばしば、身近なスケールで測れない部分に面白さがあるわけで、身近な話題だけに閉じてしまうのは論外だ。しかし、身近な話題から興味を引き出し、はるか彼方まで興味を延ばしていくような工夫は必要であろう。ここらへんが“話芸”が必要なとこだ。また同様に、学問の最先端でも、本当に面白いことは、その真髄は、小学生にも理解できる、とぼくは思う。だから、小学生にも理解できるように、やはり“話芸”を磨かなければならないということであろう。

 ネルフジャンパーの話(回答#09)とジュディマリの話(回答#19)は、まぁご愛嬌。前者の話は、某エヴァンゲリオンというアニメにネルフという組織があって、そのロゴの入ったブルゾンを着ていたのである。ロゴだけで別にアニメのキャラが入っているわけではないので、学内で冬場に着ているのだが、見られるところは見られてた(爆)。ジュディ&マリーの方は、うっかりミス。外部での講演などでは、たまにコンテンツにBGMを貼っていたりするのだが、今回のコンテンツに組み込んだ素材の中で、リンクを外し忘れていた部分があったものだ。だけど、“意外に”で悪かったな。好きなものはスキじゃ。

 実は、自分的には、このレポートが、一番面白かった。もとより、この種の問いに正答・正解があるはずもない。よく似た多数の答えも、少し似た少数の答えも、唯一の答えも、どの答えの重みも等しいだろう。正解がわからないと居心地が悪いかもしれないが、たまにはこんな問題を考えてみるのもいいだろう。世の中は正解のない問題だらけだ。おまけに、“自分の存在って!?”なんて問題は、答えはない上に、なかなか重たい。そんな問題を朝から晩まで考えてたら、ふつうの人だと問題の重みでつぶれちゃう。だから、四六時中、考えろ、なんては言わないが(自分だって、そんなことしてないし)、タマにでいい。ほんと、タマにでいいので、こういう機会などに考えてみるのもいいだろう。

 最後に、余談だが、 “ここはどこ、わたしはだれ”とか“どこからきて、どこへいくのか”などは、よく聞く設問だが、由来はぼくもよく知らない。一方、“何をもって、あなたの存在を妥当とするか?”も、やはり古くから問われる問いだろうが、ぼく的には出典がある。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』というミステリーがそうだ。細かい言い回しは違っているかもしれないが、このミステリーで使われていて、妙に気になっていて、一度、使ってみたかった質問だったわけである。