『天文月報』84,232(1991年)より
天 文 学 術 誌 の 興 亡 : 外 伝

福江 純
大阪教育大
Jun Fukue:PRELUDE TO PUBLICATIONS

1 故きを訪ねて

 日本天文学会の沿革について少し調べたので紹介したい.
 日本天文学会は1908年(明治41年)創立,実に80余年の歴史を持っており,日本の学会の中では比較的古い部類に属するだろう.が,公認『日本天文学会史』などというものがあるわけではなく,その沿革はあまりつまびらかでない.
 古い天文月報をひもとくと,創立50周年の頃に天文学会の手によって学会抄史が簡単にまとめられている(天文月報,1957年,第50巻3頁;以下,天文月報からの引用は,57年,50,3のように略記する).当時と言えば,筆者もまだ1歳の誕生日を迎えておらず,現在の学会員の中には生まれていなかった人も少なくないだろう.学会抄史が(学会によって)まとめられるのは,まあ次回は100周年の2008年頃だろうか.現在は丁度その端境期にあたり,学会の沿革を知らない人も増えている時期ではなかろうか.
 また以下紹介することは,大部分は天文月報など公刊された資料にもとづいているが,古い資料は大きい機関にしかないので,目に触れる機会が少ないと思われる.そこで少し長くなるものもあるが,引用などを適宜はさんでいきたい.
 次節でまず日本天文学会全体の歴史や会勢について紹介し,とくに天文月報については3節で,パブリについては4節で報告する.なお表1に学会関係の抄史を簡単にまとめておくので随時参照して欲しい.

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表1 日本天文学会関係抄史
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1908年 1月 日本天文学会発起人会開催
        日本天文学会発足
1908年 4月 機関誌『天文月報』創刊
1908年11月 第1回定会開催
1920年    天文同好会(後の東亜天文学会)設立
        機関誌『天界』創刊
1930年10月 日本天文学会要報発刊(1942年まで)
1935年 1月 社団法人日本天文学会設立認可
1936年11月 天体発見賞の創設
1946年 4月 天文学普及講座毎月開催
1948年 4月 日本天文学会第1回年会開催
1949年 3月 欧文報告『PASJ』創刊
1949年    年会開催が年2回定例化
1981年10月 年会が2会場パラレルセッション化(京都)
         (ただし1982年5月東京はシングル)
1986年   PASJ年6分冊に
1986年 5月 ポストデッドラインペーパー採用(東京)
1987年 5月 ポスターセッションの開催(京都)
1989年   若手賞の創設
1990年   『PASJ:投稿の手引き』出版
        部分的電算化スタート
1992年   年会が3会場パラレルセッションに(大阪)
199X年   天文学会賞(大賞・部門賞)の整備
199Y年   投稿料無料化
199Z年   自動翻訳化
2008年   天文学会創立100周年記念行事
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2 日本天文学会

草創の年

 先にも述べたように,日本天文学会の創立は1908年(明治41年)である.学会を興すことに関して前々から話はあったようだが,日露戦争などの影響で予定が遅れて,この年の1月19日に東京天文台で発起人会が開かれた(08年,1,10).発起人会への出席者は18名,その席上で会則が議定され,日本天文学会が正式に発足した.会長には当時の東京天文台長,寺尾 壽氏が,副会長には平山 信氏が選ばれている.なお発起人の中には,新星や彗星の発見で知られる井上四郎氏のようなアマチュアとして活躍していた人もいる.
 当時の会則では年会(当時は定会と呼んでいる)を4月に開くようになっていたらしいが,初年度は会員を募集し始めたばかりだったので,遅れて11月7日に東京麻布で年会を開催している.そのときの様子は天文月報に4頁にわたって紹介されている(本田,08年,1,88).「秋の空は拭いしが如く晴れて,うららかなる日光が人の身に滲む様に暖かい午後1時30分に,予定の如く開会された.・・・」とある(仮名使いは現代仮名使いに直したが,昔の人の書いた文というのは,どうしてこんなに文学的なんでしょうね!).なお当時の年会は,研究発表をする場ではなく,今で言えばむしろ特別講演会相当するもので,数人が講演をしていたらしい.いわゆる研究発表に相当するものは,数物学会で行っていたと伝え聞く.
 最初の年会で会長が述べた開会の辞の概要の一部を紹介しよう.「天文学は最も古く開けた学科の一で,西は埃及(エジプトのこと)より東は支那(もちろん中国のこと)に至るまで,古代の文明国は皆幾分の発達を見たが,我国に西洋の天文学の輸入されたのは徳川時代で,医学と同時に入って来た.医学は直接人生に必要に思われるので,その後速かに進歩したけれど,天文学の進歩の遅々たりしは甚だ遺憾であった.今日天文学の比較的普及されていないのは機関雑誌の欠乏による.(中略)天文学は漸次盛大になって来たけれど,未だ普及的の学会なきを遺憾とし,数年前よりその計画に着手し,本年ようやく発会の気運に接し,会員を募集したるに,今や特別会員170名,通常会員480名,合計650名の多数となり,なお続々入会の申込があって最初の杞憂は一払された.
 一体天文学の効能は多方面であるけれど,通俗的には迷信を打破するに甚だ有効である.(中略)天文学が一歩進めば迷信は一歩退く.我国は未だ全く一般に迷信を脱却するに至らぬ.これ吾人が諸君と共に勉めたいと思う所である.諸君が各自,光の中心となって,文明の普及と迷信の打破に尽くされたならば,我国の文運の進歩は益著しくなるだろうと信じる」
 学会発足時のなかなか凄い意気込みが感じられる.ところで近代日本になって多くの迷信は払拭されただろうが,一方で,いまだに大安・仏滅とか占星術を信じている人は少なくない(どちらの言葉もワープロの辞書にちゃんと入っていた!).文明の普及(というよりむしろ布教?)には,もっともっと努力すべきでしょうね.

社団法人化

 天文学会創立後の変化としては,まず,1923年(大正12年)の11月に会則を改正して,それまで会長,副会長と呼んでいたものを,理事長,副理事長と呼ぶようになる.また同じときに,議決機関として評議員会が置かれた.
 さらに1935年(昭和10年)1月,社団法人日本天文学会の設立が認可されている(中野,35年,28,45).学会としての組織を強固にするために社団法人化することは長年の懸案であったようだが,1932年になってようやく学会内部で社団法人化することが決議された.そしてその後,定款の議論に移って,定款の内容が1934年にまとまり,同年,文部省に設立申請を行っている.そして最終的に,1935年の1月18日に社団法人が認可されたようだ.社団法人化は,学会創立以来はじめて迎えた大きな組織変更であろう.社団法人となって最初の総会は,同じ年の4月21日に東京科学博物館で開かれている.そのときの出席者は22名だった.
 翌1936年(昭和11年)の11月には,天文学会の顕彰制度として天体発見賞が創設された.『日本アマチュア天文史』によると,当時さる人から天文学会へ金200円の寄付があって使途未定だったところへ,1936年頃に相次いでアマチュアによる新天体の発見が続いたため,天体発見賞が制度化されたとある.天体発見賞は,ご存じの通り,以来,今日まで続いている.

戦後

 第二次世界大戦をはさみながら,一世代の間,日本天文学会はゆるやかに発展していく.
 戦後になって,天文学の普及事業としてまず行われたことは,1946年(昭和21年)4月から,日本天文学会と国立科学博物館との共催によって,天文学普及講座が毎月開催されはじめたことだ(この講座自体は現在でも国立科学博物館で続いているが,日本天文学会と共催ではない).敗戦直後の,食べものだけでなくおそらく文化にも飢えていた時代に,学会としてかなり組織的な努力をしているようだ.いや日本天文学会だけではなく,日本天文研究会や東亜天文学会のようなアマチュア団体も戦後すぐに活動を開始している.アマ・プロ一丸となって,戦後の文化的復興に心血を注いだ跡がみられる.
 また1948年(昭和23年)4月および5月に,戦後最初の第1回年会が開催されている.まず4月に東京で年会の第一部が開催され,5月に京都で日本物理学会に共同参加した形で第二部が開かれている.戦前から日本数物学会年会で天文分科会というものがあったらしいが,数学会と物理学会の分離などに伴い,天文学会もこの年から発展分離し,独自の道を歩んでいく.

学会改革運動

 さて時代はずっと下り,1968年(昭和43年)10月に京都で開催された日本天文学会臨時総会を機として,学会改革の火の手が上がった.
 そもそものきっかけは,科学研究費補助金配分問題である.科研費の配分は研究者の自主性にもとづいて行われていたのだが,学会からは審査委員を推薦するだけで,その選任は文部省が行うという提案を,文部省がしてきた.研究者を管理していこうという文部省の姿勢に対し,学会として抗議活動を繰り広げるように若手が突き上げたのだが,学会側は最初これを拒否する.科研費問題をめぐって明らかになったことは,当時の学会がきわめて前時代的な体質を持っており,民主的な話合いをする場自体が存在しないことだった.「天文の観測のためには暗闇を歓迎するわれわれも,暗闇の中での科研費配分は願いさげにしてもらいたいと思う」(大木俊夫,68年,61,298).そしてその場をもとめて,臨時総会が開催されたのである(定款に約束されている臨時総会の開催自体についても,学会側は否定的だったらしい).
 科研費配分問題が収拾した後も,天文学会自体の問題は広がっていった.当時,広く論議された点の一つは学会の組織や運営にかかわる問題で,それまでかなり前時代的な組織であった学会の運営を民主化することだった.また学会はその創設以来,現在でもそうであるが,職業的研究者と天文同好者(アマチュア)という,基本的な要求が場合によっては異なる2つの集団の集まりである.学会の民主化を進めるのは非常にいいことなのだが,問題は,それを研究者の立場だけで進めると,その結果がアマチュアにとっては必ずしも民主化になっているとは限らないことである.
 このような状況のもとで,1969年,日本天文学会運営検討委員会で,会員の種類(正会員,準会員),部会制(研究者部会,天文教育部会,天文同好部会),総会(最高議決機関)・評議員会(中間議決機関)・理事会(会務執行機関)のような学会各組織のの位置づけ,評議員(正会員から公選)・理事長(評議員の互選)・理事(評議員会による任命)のような各委員の選出方法などを検討し,1年ほど議論した.しかし特別会員が運営にあたり,東京天文台の会員が実務を行っている実状では,それらの実施に大きな困難が予想されたため,実質的な改革は見送りとなって,評議員の公選制のみが答申された.
 その後,1971年2月に日本天文学会改革委員会が設けられ,それまでの議論を踏まえて新定款移行の議論が始まっている.
 さらに1973年か1974年頃まで数年間,かなりのエネルギーを割いて,学会の改革が議論されている.
 このときの学会改革運動において,新定款の土台として最終的に合意された事項は,@研究者とアマチュアからなっている天文学会の伝統的な会員構成は守る,A評議員を学会員の選挙で選ぶ,の2点であるようだ.で,また,実際,この後,評議員は(特別会員の)直接選挙制になっている.
 学会の組織・運営として見た場合,見かけ上の変化は大きなものではなかったが,学会構成員の間で上記のような合意が得られただけでも一つの大きな成果だったと思われる.とくに従来,民主的なルールという意識自体が存在しなかった学会の意識改革がある程度なされた点は評価すべきであろう.
 ただし改革の当初の出された問題点・矛盾点については解決したわけではなく先送りしただけで,基本的には今日までこれらの矛盾を抱えこんだままきている.そして再び定款改訂の問題が議論されはじめた今日,20年前に先送りしたことがやはり問題となっている.今回の定款改訂に関してどうなるのかわからないが,まったくいつの時代も似たようなことを繰り返しているものである.
 学会改革運動について,詳しくは,天文月報をご覧いただきたい(日本天文学会運営委員会委員長小暮智一,69年,62,表紙裏;ワーキング・グループ,70年,63,10月号付録;東京天文台小平桂一,71年,64,45;東大天文学教室海部宣男,71年,64,82;改革委員会委員長魚媛目信三,71年,64,84;改革委員会委員長魚媛目信三,71年,64,5月号付録;東京天文台古在由秀,71年,64,168;庶務理事牧田 貢,71年,64,281;海野和三郎,71年,64,338;庶務理事高瀬文志郎,72年,65,130;庶務理事高瀬文志郎,72年,65,328;前庶務理事高瀬文志郎・真鍋良之助,73年,66,971;漏れ落としがあればご容赦を).
 以上,天文学会が創立してから後の主な出来事を簡単に述べたが,天文学会周辺との関わりについては,天文月報からはあまり知ることができなかった.たとえば,天文学会が創設された後,1920年(大正9年)に,京都大学の山本一清氏によって天文同好会(現在の東亜天文学会の前身)が設立されている.この東亜天文学会の創設や日本天文学会とのつながりについて,また日本天文学会草創時のアマチュア天文家の果たした役割などについては,筆者は残念ながら寡聞にして知らないので,どなたかご存じの方に紹介していただきたいと思う(『日本アマチュア天文史』にはある程度述べてある).

日本天文学会の会勢

 ここで日本天文学会が創立されて以来80余年の間に,会員その他,会勢がどのように変わってきたかを少し見ておこう.


図1 会員数の年次推移

 まず日本天文学会の会員数の年次推移を図1に示す(26年,19,65;35年,28,45).図1の折れ線グラフは,上から順に,総会員数,通常会員数,特別会員数,賛助会員数である.名誉会員は数が少なく図ではわからない.またかなり昔は終身会員とか外国会員のような制度があったようだが,それらは適当に判断してある.手元の資料などの都合で少し欠測がある.なおこれらの数値は当該年度末(1956年度のものは,1957年3月)の値である.
 図からすぐに気がつくことは,1945年頃のディップである.これはもちろん第二次世界大戦のためだ.実際,1943年から1946年にかけては会員数の報告自体がなく,この期間は欠測となっている.また1947年度の会員数は,概数が約何人と報告されている.第一次世界大戦のあった1914年〜1918年頃も会員数の減少がある.
 さらに1959年から1965年をピークとして,通常会員数が急激に増加している.文字どおり倍増している.これは1957年のスプートニクショックに続く宇宙時代の幕開けのためと考えられる.一方,1969年に実現したアポロ11号の月面着陸の影響はあまり見られない.まあいずれにせよ,それなりに歴史の動きを反映していて興味深い.
 この数年間は,通常会員が少し減って特別会員が少し増えているが,大学院生や技官の人たちなど,本来特別会員であってしかるべき人たちの移動があったためではないかと思われる.


図2 人口比の年次推移

 図2に同期間の日本の人口の年次推移を示す.縦軸の目盛りは2億人までとってある.図2の太い折れ線が日本の人口で,1919年までは内地人人口,1920年以降は総人口である.概ね毎年10月1日のものである.第二次世界大戦によって人口が減少したにもかかわらず(1945年のディップ),日本の人口は着実に増えてきていることは驚嘆に値する.立派に頑張っているなと思う.
 また他の折れ線は,日本天文学会会員の日本総人口に対する比率を表し,図1と同様に,上から総会員数/総人口,通常会員数/総人口,特別会員数/総人口,賛助会員数/総人口である.縦軸の目盛りは0.002%まで.第一次世界大戦や第二次世界大戦の間は,会員数の絶対数(図1)だけでなく,人口に対する相対数も大きく減少していることが,図2から見てとれる.戦争が文化の衰退を招くことが如実に現れている(学会の会員数を文化活動の一つの目安とすれば).またこの20数年間は,概ね総人口の0.002%,10万人に2人ぐらいが天文学会の会員である.


図3 収入の年次推移

 図3は学会収入で,黒丸が学会収入の対数を表す.臨時会計とか特別会計とかまた物品財産とかあってややこしいが,一般会計の収入の部の最後の合計額(決算額)を用いた.対数でみてほぼ線形的に増加しているということは,収入がまさにインフレで指数的に増加していることを意味している.この学会収入については,最初生の値を何回プロットしてもオーバーフローを起こし,対数をとったら収まったという,はじめて経済学に触れた思いをした.
 また図3の白丸は,日本の国民総生産(GNP)の対数だが,GNPも戦後指数的に増加している.さらに図3の小さい点は,天文学会の収入のGNPに対する比率を表す.縦軸の目盛りは,一目盛りが,0.2ppm(2×10-7)である.おおまかにいって,この30数年は,国民総生産の1000万分の2弱ぐらいが,天文学会の予算だと思えばよい.それにしても少ないねえ.


図4 年会講演数の年次推移

 さて最後の図4は,年会の講演数を示したものである.図4の折れ線が,戦後,年会が再開されてから以降の春季・秋季併せた1年間の講演数の合計で,ポストデッドラインペーパーやポスター講演も含んでいる.ただし年会プログラム発表後に取り消された講演数は除いてある(たけ地氏による).現在近傍でもなかなかシビアに増加しており,吉澤氏の試算では,年間予想講演数が,1995年には788にもなる.これだけの講演がそのまま全部論文になっているといいのだが.内容も濃いものにしたいですね.
 図4の丸は,講演数の特別会員数に対する比率で,ま,かりに学会講演をしているのが特別会員だけだとした場合(これはあまりよくない近似だと思うが,総会員にする近似よりは少しましだと思う),特別会員一人当りの1年間の平均講演数を表す.非常におおざっぱに言えば,大体0.7回程度とみることができる.これを多いとみなす少ないとみなすか妥当とみなすかは,人によってその見解は異なるだろう.

3 天文月報

 天文月報は,日本天文学会が設立された1908年の4月に,天文学会の機関誌として創刊された.天文月報という名前も,またその英名The Astronomical Heraldも,創刊以来変わっていない.ちなみにAstronomical Herald(天文学の先駆者)と命名したのは,初代会長の寺尾 壽氏らしい(下保,57年,50,4).天文月報初代の編集主任は一戸直蔵氏である.この人物はまた,天文学会の創設にも多大な尽力をされたそうである.日本で最初の変光星研究者だったが,同時に反骨精神あふれた人で,ついには東京天文台の寺尾台長と衝突し,1911年に天文台を辞した猛者である.下野した後は,反アカデミズムの旗手として科学啓蒙家に転じた.閑話休題.
 天文月報,創刊当時は12頁仕立てで,一部15銭だった.現在は28頁で,一部457円(消費税別)である.

発刊の辞

 さて第1巻第1号の第1頁に,会長寺尾 壽氏の発刊の辞が載せられている.少し長いが引用してみたい.
 「天文学に対して世間に二つの誤解あり.第一,天文学は唯いたずらに高尚にして実用に遠しということ,第二,天文学は徹頭徹尾煩雑なる数字の結合にして,素人には到底その門牆(垣根のこと)をだに窺い得られぬものということなり.
 第一の誤解につきては特に多く言うことを要せざるべし.彼の世に最も実用的と称せられたる支那民族が,数千年の古より今日に至るまで大聖人として崇敬する所の帝尭帝舜が「日月星辰を暦象する」ことを政務中の最も重要なるものとしたるが如き.又近くは世界に名を轟かしたる英国緑威の天文台が,航海業の発達を図るという唯一の目的を以て創立されたるが如き.斯学(この学すなわち天文学のこと)と実用との関係の如何に深きかを示すに非ずや.
 爰に(ここで)実用という辞は,世人と共に我々の物質的要求を満足せしむるものという意味に用いたり.然るに人類は物質のみにて満足する者にあらず.吾人の口や腹が飯や菜を要求するが如く,吾人の精神もまた何物かを要求す.この精神の要求こそ最も高尚なるものにして,人の以て禽獣に異なる所の主なる点なれ.しかして吾人目を上げれば直ちに天を見るが故に,天は人類全体の精神的要求の共同目的物なり.假令(仮に)天文学をしていわゆる実用と何等の関係をなからしむるも,なおかつ吾人の研究を値すというべきなり.
 偖(さて)天文学は数字の塊にして門外漢の窺い知ることを得ざるものなるかというに,幸いにして然らず.フランマリオン言えることあり「数字は天文学という美麗なる宮殿を造るための足場にほかならず.足場をさえ取り除けば宮殿の美,たちまちに見はる」と実に然り.足場を造りて宮殿を建築することはもとより我々専門の職掌なり.しかして足場を取り除きて広く世人に宮殿の美を賞玩せしむることもまた本職の仕事たらずんばあらじ.これすなわち本雑誌の世に現れたる所なり.(後略)」
 たった80年前の文章なのに,読むだけで大変だが,大意はわかっていただけただろうか.
 第1巻第1号の2頁には,日本天文学会の会則が掲げられており,さらに続けて,いろいろな記事が載せられている.初期の頃の天文月報の記事は,外国の研究を紹介したものが多かったようだ.次第に国内の研究の紹介も増えていく.第1巻第1号からはじめて,天文月報の目次を眺めているだけでも,面白そうなタイトルが並んでいるが,いずれ近代日本天文学史的な立場からどなたかが紹介していただきたいものだ.

創刊時の編集方針

 また一戸氏が初代編集主任の任を解かれたときには,「退任に際して」と題して,天文月報の初期にどのような編集方針をとったか,さらに今後どのようなことを希望するかが,3頁にわたって語られている(11年,4,13).全文なかなか面白いが,編集方針に関して述べた部分だけ少し紹介しよう.
 「(前略)日本人間否な少なくとも日本語を解する人々の間に,日進月歩の天文学を普及するということに据えられたのである.このように普及を主とした結果,むずかしい研究の結果を発表する機関は追って設けることとした.そのようにすれば雑誌の編集方針もいたって楽なようであるが,その実なかなか面倒なことがある.というのは天文月報は本邦における天文学雑誌の唯一のものであるという自重を保つ必要があるのと,他方には天文学上の学説を詳述する必要があるからである.もちろんつまらない自重心というものは捨てねばなりますまいが,余りに通俗に過ぐると普通の商売雑誌と異なる点がなくなる.そこで出来得るだけ通俗で,しかも新説を網羅した専門雑誌たらしめたいとの綱領を立てたのである.(後略)」
 当時に比べれば現在では,商業ベースにのった科学的な啓蒙雑誌として,さまざまな種類の雑誌が店頭にあふれている.従来の文字情報を主体とした老舗的なものから,いわゆるグラフィック/ヴィジュアル的要素を売り物にした比較的新しいものまで,また科学一般を扱ったものはもちろん,天文など一つの分野を扱ったものも少なくない.雑誌の種類自体が少なかった時代と比べて,天文月報を取り巻く環境は量的に大きく変化している(ちなみに,最初の天文雑誌として『天文と気象』/現『月刊天文』が地人書館から創刊されたのは,1949年である).雑誌の種類が少なかった時代でさえそうだったのだから,現在,“ひと味違う天文月報”を目指すのは,至難の技であることは想像にかたくない.編集者とまた書き手とが共に努力していくしかないのでしょうね.

その後の変遷

 創刊後の天文月報の様子については,「天文月報50年の歩み」(下保,57年,50,4)で述べられているので,創刊後50年までのことについてはそちらを読んでいただくことにして,そこから一節だけ引用しておきたい.「他の多くの学会が専門家の集まりであり,学会誌といえば概して専門学術雑誌であったのに対し,日本天文学会は発足の当初から一般の天文愛好家に開放された集まりであり,天文月報は天文学の進歩と普及の両面を持った雑誌として発刊されたことは特記すべきことであった.」創刊して50年(当時)経ったときにも,創立以来続いている伝統に対して,ある種の誇りが感じられる.
 さてスタイル的にみると,天文月報は,創刊時には4月号を第1号として数えていたが,1919年(大正8年)1月発行の第12巻からは,現在のように1月号を第1号と数えるようになった.また最初の頃は縦書きだったが,1938年(昭和13年)の第31巻から横書きになっている.さらに1917年(大正6年)の第10巻までは大判(12頁)で,翌年の第11巻からは現在のサイズ(16頁)になっている.
 戦時中は物資の不足と印刷能力の低下から刊行は非常に難しくなったようだ.戦時中から戦後にかけては紙質も非常に悪く,現在では黄ばんでいる.1947年(昭和22年)の第40巻1月号からは,天文月報の定期刊行もようやく軌道にのり,1957年(昭和32年)の第50巻からほぼ現在のスタイルになっている.以来,30余年,スタイル的にはあまり変化はないようだ.
 この間,頁数の方は少しずつ増えているのかと何となく思っていたら,必ずしもそうではない.現在のサイズになってから戦前までは大体16頁立てで,戦後は8頁以下に落ちているが,1950年代から16頁に戻り,1960年代には20頁から22頁ぐらいを維持している.とくに1970年代に入ってからこの20年間の1月号の頁数を並べてみると,1971年(昭和46年)の第64巻から1990年(平成2年)の第83巻までで,
  28 26 26 34 34 30 26 28 28 28
  30 32 32 28 28 28 32 32 24 28
となる.このように頁数には随分とばらつきがあるが,定期出版物として定価をつけて売っている以上,むやみに頁数が減少するのはあまり好ましくないのではないだろうか?
 内容的な面での変化はどうかというと,とてもここではすべてを網羅して解析できるだけの余力はない.とくにそれぞれの時代でどのような問題が天文学のトピックスだったかとか,さまざまな概念がどのように理解されていったかなど興味深いが本稿の範囲を超える.そこで筆者の目に触れたことだけを2,3述べておくだけにしたい.
 天文月報では昔からいろいろと特集を組んでいる.面白そうなのは,たとえば<天文学者を語る>(59年,52,13,38,80,98,120,133,181,205)および<海外天文学者の横顔>(65年,58,54,131,147,173,281)と題して,現代の天文学者のプロフィールが紹介されている.こういうの,もっともっとやって欲しいね.また天文台を蔭で支える<裏方めぐり>(71年,64,12回),<一冊の本・一篇の論文>(72年,65,12回),<ものをはかる>(73年,66,11回),<星図星表めぐり>(74年,67,12回;75年,68,12回)なども読みたくなる.最後のものは一冊の本にまとまっているのはよく知られているだろう.<天文数値シリーズ>(76年,69,10回;77年,70,7回)とか<やさしい天文学シリーズ>(78年,71,10回;79年,72,2回;81年,74,4回)などもある.<想作天文学>(82年,75,12回)はリアルタイムで読んでいたのだが,出色の出来だった.最近では,<コンピュータ・シミュレーションが切り拓く天文学−星から宇宙の果てへ−>が連載中である(90年,83).
 天文教育についても何回も集中的に取り上げられてきている.たとえば<天文教育について>として何通かの投稿が掲載されているが,これは1952年4月の年会中に開かれた天文教育に関する懇談会から出てきたものらしい(52年,45,7月号101−105,10月号151−154).またIAUの天文教育委員会の報告(藤田良雄,65年,58,10)を契機としてか,<地学天文教室>として,地学・天文関係の教育現場の様子が何回も紹介されている(65年,58,10,102,133,198,259,261;66年,59,9,177,244;67年,60,19,180,223;68年,61,87,313,315).さらにこれは後の天文教育懇談会へと続いていく(70年,63,181;71年,64,106,217,332;72年,65,22,266;73年,66,207;74年,67,126,289,382;76年,69,151,312;77年,70,176).ほんと頑張ってるなと思います.月報誌上の天文教育に関しては,その後10年ほどしてふたたび活発化して,<教育系大学における天文教育の現状と未来>(86年,79,8回)や<社会教育の中の天文>(88年,81,5回)その他,86年から89年にかけて,天文教育関係の記事が目白押しで並んでいる.

4 PASJ

 日本天文学会欧文研究報告誌PASJ(Publications of the Astronomical Society of Japan,通称パブリ)は,天文学に関するオリジナルな研究結果を欧文(といってもほとんど英文)で報告する学術雑誌で,日本天文学会が定期的に出版している.パブリが創刊されたのは戦後のことだが,実はパブリには前身といえるものがあった.

日本天文学会要報

 日本天文学会が発足し,天文月報がその機関誌として発刊されたが,それとは別に雑誌を創刊して,内外の研究者のオリジナルな研究成果を海外に知らせるべきだという声は,わりと早い時期からあったようだ.
 が,実際には,天文学会が生まれて20余年してからようやく,天文学上の研究を紹介するために,邦文で書かれる『日本天文学会要報』というものが,1930年(昭和5年)10月に創刊されている.
 この要報の表紙裏には,本会事業大要として,以下のように記されている.「本会は天文学の進歩及び普及を目的として居ります.普及に関しては毎月天文月報を発刊し,春秋二回の定会で講演会,天体観覧その他の催しを致します.進歩に関してはこの度創刊になった日本天文学会要報に主として天文学に関する論文,観測等を集めて研究発表の機関と致しました.その他一般会員の天文観測を指導して,その結果は随時機関雑誌に発表し,且つ別刷りを広く世界各地の天文台に配布して居ります.」これを読むと当時の学会活動の様子が感じられる.
 また要報の第1巻第1号には,平山清次理事長の発刊の辞が掲載されており,その中では,国内で行われた研究成果を海外に知らしめることの重要性と同時に,母国語を尊重すべきだという意見が述べられている.
 さてこの要報は,平均的には2年に1巻ぐらいの割で出版されており,1巻が1号から4号までの4分冊で,さらに1号につき数篇から10篇程度の邦文の研究報告が載せられている.掲載された論文のタイトルを眺めると,当時の研究の中心分野を反映して,位置天文学や天体力学,太陽表面現象に関する内容のものが多い.恒星物理学や銀河物理学に関するものはポツポツとあるが,もちろん宇宙論などはその“う”の字もない(ところで余談だが,銀河という言葉は1930年ごろには,すでに使われている!).またほとんどは天文学に関する内容の研究だが,中には,海流についての研究なども寄せられている.さらに目だつのは,アマチュアによる変光星の観測記録などがかなり頻繁に載せられていることである.
 日本天文学会要報は,1942年(昭和17年)5月に発行された,第6巻第4号をもって中絶している.おそらく戦争のためと想像される.

もう一つの前身:JJAG

 パブリ以前に英文で書かれた学術報告のようなものはなかったのかと思っていたら,天文学界の生き字引,古在由秀氏から,もう一つの前身と呼べるものについてご教示いただいた.Japanese Journal of Astronomy and Geophysics(JJAG)という雑誌である.この雑誌は,現在の学術会議の前身である,学術研究会議(National Research Council of Japan)が編纂しており,1922年(大正11年)から1944年(昭和19年)頃にかけて20巻ほど出版されている.天文学分野と地球物理学分野のそれぞれ10人程度からなる出版委員会が編集をしている.パブリが生まれる以前には,国内の研究成果を海外に知らせるための原著論文は,このJJAGか各大学の紀要に掲載されていたのである.またJJAGには,国内で日本語で報告された研究のアブストラクトも掲載されている.日本天文学会が発行していたものではないが,確かにパブリの前身と呼ぶにふさわしい.
 なおJJAGが廃刊になった直後に,Japanese Journal of Astronomyという雑誌が1巻だけ出版されているようだ(残念ながら現物は目にしていないが).
 ちなみに,上記の学術研究会議は,天文・地物分野以外にも,化学,物理,地理,植物,動物,医学,工学,数学,海洋学,電波研究,学術研究会議自身に関して,合わせて12種の雑誌を編纂している.

パブリ

 さて戦前にJJAGや要報が中断されて以降,天文学の研究を報告する雑誌はしばらく途絶えていたのだが,1949年(昭和24年)3月になってようやく,欧文の研究報告誌としてPASJ(Publications of the Astronomical Society of Japan)が創刊される.主任編集委員として,松隈健彦,上田 穣,萩原雄祐の3氏,さらに編集委員として7人の名前が挙げられている.
 パブリ創刊前後の状況としては,まず「天文学会要報欧文化について」として,8行ほどでパブリのコマーシャルがされたのが1948年のことである(48年,41,56).その後,欧文報告第1巻第1号出来上り予定のお知らせがある(49年,42,16).また第1号が出た後には,欧文研究報告編集委員会の委員名が紹介されている(49年,42,54).
 が,一方,創刊されたパブリ第1号にはとくに発刊の辞のようなものはなく,またその他の資料も少ないため,パブリの創刊前後の事情に関しては,上記以外あまりよくわからなかった.
 ただ興味深い裏話として,最初のころパブリは掲載料をとっていなかった.じゃあ,出版費用はどうしていたのかというと,科研費を使っていたらしい.しかも会計検査を切り抜けるために,科研費の出版物として表紙だけを張り替えたものまで作成していたらしい.さらにこうして作った雑誌を,国内の研究を海外に知らせるために,外国へはただで寄贈していたということだ.こんなすごいことが1960年頃まで続いたようだ.1960年代に入ると,さすがにそんな離れ技はできなくなり,現在のように掲載料をとる形式になったのである(なかなかきわどい話なので最初は書くまいかと思ったが,やっぱり書いてしまった.時効ですよね,文部省さん).
 昔とは違う理由ながら,現在,経営努力次第ではパブリの掲載料をなくすことができるのだから,天文学会はもう少し頑張って欲しいものだと思う.

その後の変遷

 パブリの創刊当初は論文のレフリー(査読者)はなく,編集部で論文の掲載可否を判断していたようだ.パブリにレフリー制度が設けられたのは,1963年頃かららしい(65年,58,64).
 また1960年代から少し前まで,いわゆる寿岳 潤指導体制が続いた(寿岳氏が編集に携わったのは,1963年から1967年までと1969年から1989年まで).寿岳氏の在任中は,そのきわめてユニークな個性によって,良くも悪くもパブリの一時代を画したことは確かであろう.
 ごく最近,寿岳氏の退官を機に,パブリの編集理事の交代があり,同時に編集体制も変化した.いろいろなことがいちどきに起こった感じだが,その結果として出てきたものが,一つは1990年の『PASJ投稿の手引き』の発行である.また同年からはじまった出版作業の一部電算化に伴って,論文の原稿を(論文受理後の校閲段階で)フロッピーで受け付けるようになった(校閲段階で英文修正などを著者が入力しないといけないために著者への負担は大きくなったが,以前に比べると植字ミスは確かに減少した).これはまだ現在進行形である.
 その他,創刊以来,ずっと年4分冊だったが,1986年から年6分冊になっている.判型を変えるという意見もあるが,まずは掲載数が増えなければね.
 これはオマケだが,パブリの表紙裏に掲載されている編集者の職名の変遷も面白い.現在のパブリの編集者には,編集長を訳したManaging Editor(以下MEと略記),編集理事を訳したAssociate Editor(AE),編集委員を訳したBoard of Editor(BE)などがある.が,かつては,主任編集委員をEditor(E),編集委員をAEと呼んでいた.またCompiler(C)というのが置かれていた時期もあるし,今年からはManuscript Editor(MtE)というのもできている.もちろん名が体を表しているとは限らず,昔と現在とではその名で意味する職能も異なるだろうが,ざっと並べてみよう.以下,西暦年の下2桁,パブリの巻数,表紙裏に並んでいる順に職名と人数を表す.
  49, 1, E3, AE6, ME1
  50, 2, E2, AE6, ME1
  53, 5, E9, C1
  54, 6, E9, C2
  55, 7, E9, C1
  59, 11, ME1, AE1, E9
  65, 17, ME1, AE3, E9
  〜69, 21, ME1, AE4, BE9
  75, 27, ME1, AE4, BE10
  81, 33, ME1, AE5, BE10
  90, 42, ME1, AE5, MtE1, BE10
 も一つおまけだが,パブリの掲載数は,このところ横ばいで,平均年54篇程度である(「天文学術誌の興亡3」など参照).一方,投稿数は,1年あたり,70篇近い.詳しいデータは省略するが,パブリに投稿された論文の掲載率は,1979年から1988年の10年間の平均では,0.79である.各年でみると0.6から0.9ぐらいの範囲でバラツキがあるが,年次変化はとくにないようだ.パブリの掲載率は,Nature(1/3程度と言われている)などに比べると確かに高いが,一般に想像されているほど高くはない.結構シビアなのである.

4 新らしきを知る

 先年,欧文研究報告編集問題検討作業グループの一員として,『PASJ投稿の手引き』の編纂に携わった際,プログレスの投稿の手引にあるように,投稿の手引きの最後に,天文学会やPASJの沿革を是非付けたかった.諸般の事情により,残念ながらボツになってしまったのだが,そのとき,じゃあ個人的に調べて天文月報にでも載せましょうと言っちゃったわけで.こうなるとはっきり言って,性格が災いする.
 まあ,日本の天文学の流れを知る上でも,日本天文学会の歴史的経緯をいくらかでもまとめておくのは,意味があることだろうと考えた.まったく陳腐ではあるが,過去を識ることは,それを現在へ反映し(もちろん,過去に縛られるのは愚かだが),さらには,未来を考える材料にもなるだろう.

 この数年,そしてまた現在,日本天文学会はさまざまな点で新しい動きを見せている.学会組織そのものについては,文部省の指導に端を発した定款改訂の問題が出てきている.場合によっては,かつての学会改革運動のときに残された民主化の問題がまた噴き出してくるかも知れない.特別会員と通常会員の間の問題も避けては通れないだろう.しかし天文学会として保ち続けてきたよい側面はできるだけ残していきたいものである.
 また天文月報も天文学や宇宙科学に対するニーズが非常に高まっている中で,従来のような,業界の人間にとってさえも読みづらい記事ばかりではとてもやっていけない.ここは投稿者自身の意識向上も望まれる.片手間ではなく,科学論文を執筆する以上の手間暇をかけて記事を書いて欲しい.編集者の世代交代もあるようだし,ここは若い世代に期待したい.
 さらにパブリ.別に報告したように,最近それぞれの天文学術誌が重たくなって情報が洪水化しつつある中では,比較的よく健闘しているといえる.日本の研究に対する評価が高くなってきているようだ.が,それに甘んじずに,新たな転機としてメジャーな国際誌への道を歩みたいものである.
 天文教育などの面でも,弱体ながら天文教育普及研究会という組織が発足したし,天文学会との連携を深めながら,教育関係者だけでなく研究者も含めた天文関係者全員で,日本のいや世界の天文学の将来を考えていきたいものである.とにかく教育や普及なくしては,天文学界の将来はないのだから.
 今回いろいろ調べて天文学会というものが少しだけどイメージできたような気がする.多くの矛盾も抱えているし,保守的な体質も(いまだに)残しているが,その都度,それなりに,自己改善・自己啓発をしてきた団体ではないか.あ,こんな言葉を書くつもりはなかった.年取るとラジカルでなくなるのかな.現実にはdrasticな革新は難しいかも知れないが,drasticな革新を目指さない限り,わずかの革新もなされない,と思う.

 古在由秀氏には全体に目を通していただき,さまざまな助言やコメントをしてもらいました.小暮智一氏と海部宣男氏には内容に関していろいろと議論していただきました.吉澤正則氏,たけ地 厚氏,黒田武彦氏,嘉数次人氏には,資料を提供していただいたり,資料のご教示をしていただきました.岡田/梅村理佳さんにはデータの解釈について有益なコメントをいただきました.この場を借りて皆さんに感謝いたします.

参考文献
編集係「国際天文学連合小史」天文月報,1955年11月号168頁
福江 純「天文学術誌の興亡」天文月報,1986年4月号98頁
中山 茂『一戸直蔵』リブロポート
日本アマチュア天文史編纂委員会編『日本アマチュア天文史』恒星社厚生閣(1987年)
森久保 茂「アマチュア天文家の活動概史」星の手帖1987年冬の号,6頁
福江 純「パブリの問題について」天文・天体物理若手の会サーキュラー,1989年4月,No.3.
福江 純「日本天文学会と天文教育」第4回天文教育研究会(西はりま天文台)集録,1990年
福江 純「天文学術誌の興亡3」天文月報,1991年3月号89頁
柴田一成・平野れい子「PASJ論文引用の研究」天文月報,1991年3月号86頁


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