横尾武夫退官記念冊子寄稿文完全版

■ヨコヲ、マイラブ!?■

福江 純 1999/08/17

■一昔半
頭に浮かんだままをタイトルにしたが、よく考えると(よく考えなくても)我ながら気持ち悪いタイトルを付けてしまった。他意はないので、本意を汲んでいただきたい。 さてさて、ぼくが大阪教育大学に赴任したのが1984年の4月だから、この夏で15年と半年経つわけだ。ちゅうことは、ぼくが横尾さんと初めて会ったとき、横尾さんは(今の)ぼくの歳ぐらいやったわけか。えらいこっちゃ(何が?)。ちゅうことで(何が?^2)、顰蹙必至、思い出すまま、無分別に、折々の印象を書いてみたい。ちなみに、赴任した当時の地学のスタッフの写真をみると、当たり前だがみんな若い(写真JF840623;1984年6月23日)。写真は、旧地学教室の分属ガイダンスのときに、天王寺校舎の屋上で撮影したもの。

■オサケ@寺田町界隈
やっぱ最初はオサケの話だろうか。助手の頃は結構あちこち飲みに連れていってもらった。場末の飲み屋とか寿司屋が多かったが、でも、さすがは大阪、安くて旨い(あの当時の上巻き寿司の味はいまも忘れられない)。寺田町界隈の飲み屋は、ほとんど呑み歩いたんじゃなかろうか? さらに、阿倍野が開発され、新宿ごちそうビルとかが出来ると、そこらへんにも足を伸ばした。…いまでも覚えているけど、ある夏の日に悟空クラブで飲んだとき、それぞれ大ジョッキを5杯ずつぐらい空けたことがある。ぼくも別にオサケを飲まなかったわけじゃないが、20代後半頃はまだ晩酌をするほどでもなかった。それがまぁ、研究室の内や外で、オサケに付き合っているうちに、いつのまにやら鍛えられてしまった。

■カラオケ&踊り
カラオケについては別項で詳述されるはずだが、まったく触れないわけにもいかんよね。まずは強調しておきたいが、誰も信じてくれないかも知れないけど、ぼくがカラオケを覚えた(覚えさせられた)のは、教育大に来てからだ。たしかに、カラオケスナックとかで唄ったことがなかったわけではないが(カラオケボックスはない頃)、まっとうにカラオケしたのは、ほんと、ここに来てからなのだ。 正式に辞令の下りる前の2月の卒論発表会に呼ばれた(当時は天文だけで発表会をしていた)。で、その夜のコンパにも呼ばれるわな。そこまでは普通。ところがそこで、カラオケがつぎつぎ出るわけだ。また、みんな上手くって。(ノーと言えない)ぼくも断るわけにもいかずに、当時流行っていた『ルビーの指輪』を唄ったけど、これが最っ低。そのときの学生さんたちが、すげぇ、気の毒そうな顔をしていたもんである。そして最後は締めの踊り★はい、目の鱗が落ちましたね!! ちなみに、コンパで踊っているのは見たことがある人も多いだろうが、写真のように、卒業式の後の謝恩会の舞台の上でも踊ったことがあるのだ(写真JF880300;1988年3月)。

■シャツ出しファッション
いまは研究室にクーラーがあるのは当たり前みたいだけど、天王寺にはなかったねん。古い建物で天井が高かったから、まだしのげたけど、でもやはり暑かった。だから夏は、横尾さんもランニング姿になっていたことも多かった。ちょっと見には、大学のせんせというより、まさに、うちのおとーさん、って感じであった。みなラフな格好をしていたから、ま、これは別におかしくはなかったのだが、夏に限らず、ワイシャツの裾からシャツが出ている、あのファッションは、…トレードマークだった。

■大阪名物タコヤキ事件
ファッションと言えば、三田のセミナーハウスで夏のゼミ合宿をしたときのことだ。宿泊棟のロビーの椅子に座って、車座でゼミをしているとき、胡座をかいた横尾さんの半パンから、その、ちょっとはみ出ていて。誰が言い出したのか忘れたけど、タコヤキ、タコヤキと、学生の間では大騒ぎになった。おそらく横尾さんも今はじめて知る、歴史の真実である←そんな歴史は記録せんでいいって? でも、あの事件以降、ぼくは半パンを履くのをやめた。写真は、ゼミも終わって解散するときにセミナーハウスの前で撮影したもの(写真JF860000;1986年夏)。

■ギックリ腰in野外実習
西はりま天文台ができてからは、地学野外実習を(居心地のいい)西はりま天文台でやることが多くなったが、それ以前はいろいろな所でやっていた。ぼくが赴任してきた年には、奈良県の曽爾少年自然の家でやったし、そのつぎは大塔村で2年やったし、大学でやったこともある。天王寺から大塔村までは奈良交通の貸切バスで行き帰りした。さて、その大塔村の2度目のときだったと思う。野外実習の直前に、テニスだったか重いものを持ち上げたか忘れたが、横尾さんがギックリ腰にならはったわけだ。ぼくが知ってるだけでも、何度かギックリ腰をしてはるが(胃潰瘍なんかもあったぞ)、まだ50前だし若いつもりだったんだろうねぇ。 ま、でも、とにかく、ギックリ腰では野外実習はできない。こりゃ困った(誰が、ぼくが)。ぼくもまだ3年目ぐらいで慣れていないし、(横尾さんには)無理して来なくていいですよとは言ったものの、めちゃくちゃビビリながら、天王寺から学生を引率していった。したら、大塔村には、奥さんが車でちゃんと送って来てはったんだなぁ、これが。あのときは、ホント、ものすごくホッとした覚えがある。横尾さんは、あれでも、見かけに寄らず責任感は人一倍あるんである(きっと、ぼくが頼りなかったのもあるだろうが)。 もっとも、生憎と2晩とも曇り、実習自体はあまりできなかった。ギックリ腰にとっては、不幸中の幸いだったといえよう。実際、大塔村はホントによく曇り、2年やって星が見えたのは半日ぐらいしかなかった。このときは、2晩目は腰の痛い横尾さんには早めに休んでいただいた(ぼくは、え?、女の子3人と徹夜でナポレオンをしていたりして)。

■日本天文学会in近畿大学
少しまじめなことも書いておこう。詳しくは湯浅さんが書かれるはずだが、近畿大学で天文学会があったときには、大阪に横尾あり、と、面目躍如のときだったと思う。このときは難波の天文学とか題して、日本の天文学発祥の地は大阪(先事館)であった、という展示を企画した(写真JF880516;1988年5月)。これは現在の天文教育フォーラムの前身にあたるもので、何年か後に大阪学院大学で学会があったときの天文教具の展示とともに、学会の企画としては(中身の濃い)きわめてユニークなものになっている。

このときには、横尾さんと黒田さんとぼくが(湯浅さんとともに)近畿大学のゲストハウスに泊まり込んで、いつの間にか、ほとんど学会開催のスタッフをやっていた。大きな会議の手伝いは初めてだったし、とてもいい勉強になった。当時の学生も全員総出で手伝ってくれて、となれば、毎日コンパ状態だ(ああ、お好み焼き事件も書きたい)。さらに泊まり込み組は、ゲストハウスでもとーぜん毎晩酒盛り(ゲストハウスでは、政治学会を巡るめちゃオモロイ事件もあったけど、湯浅さんに譲ろう)。結局、オチは同じ。こんなネタばっかりや。ちなみに、この近畿大学の学会で細木くんがスカートをめくられたのを皮切りに、うちの学生が森本オヂサンの毒牙にかかり始めたという噂だ。

■夢の後先
黒田さんと言えば、そのころはまだ科学館の所属で、大きな天文台を作る大望を抱きつつ、夢前に私設の天文台を持っていた。横尾さん、科学センターの小林さん、学生たちと、その夢前天文台に遊びに行ったこともある。このとき、小林さんが望遠鏡を下(の方にある民家の浴場)に向けると言い出して、見かけに寄らず小林さんがスケベだということが発覚した(望遠鏡の構造上、実現しなかった)。写真は、ほとんど徹夜した翌日、近くの書写山を散策したときのもの(写真JF880810;1988年8月10日)。みな元気や! そうそう、このときも、生憎の曇天で星は見えなかった。横尾さんが<雨男>だというのも有名な話である。

■脱稿=便秘すっきり?
やはりこのころ、1987年ぐらいから1990年ぐらいにかけて、あの、歴史に残る一大シリーズ:横尾武夫編『宇宙を解く(旧版)』『宇宙を観るI』『宇宙を観るII』の執筆が行われた。この話は沢さんか柴田さんが書いてくれるのかな? ま、いっか。これはもともとは、(人を働かせるのが上手な)柴田さんが言い出し、柴田さんとぼくが同年代だった恒星社の福井正樹さんに働きかけて、当時は機も熟しており、最終的に横尾さんを中心に大同団結して実現したものである。校正刷りをチェックしている写真が出てきた(写真JF890100;1989年1月)。日付からすると『宇宙を解くI』のゲラらしい。一応、ちゃんと仕事しているでしょ。

こういう試みは初めてでもあり、随分と過酷で厳しい作業だったが、横尾さんが中心にいたからこそ、可能になったプロジェクトである。『宇宙を解く(旧版)』のときは、執筆者5人が奈良県の保養施設で2泊3日の合宿をして、侃侃諤諤の議論をしたし、『宇宙を観るI』のときは、執筆者間の齟齬をならしに、大晦日近く、横尾さんとぼくが愛知教育大学まで出かけていったこともある。いまとなっては楽しい思い出だ。全シリーズが出た後は出版記念パーティまでしてもらった。これもまた横尾さんの人徳である。 誉めるばかりもアレなんで、一つ印象に残っている話。『宇宙を解く(旧版)』と『宇宙を観るI』のときは、執筆者も5人で調整もまだ楽な方だったし、内容も比較的やさしく、ぼくもかなり手伝えたのだが、『宇宙を観るII』では執筆者も20人近くになり、各執筆者からあがってきた原稿の文体も内容もバラバラになって、結局最後は横尾さんが一人で調整(書き直し)をした。このとき、天王寺のクーラーのない研究室で、一まとまりが仕上がるたびに、“便秘してたのが、スポンと抜けて、すっきりしたみたいや”と言ってはったのをよく覚えている。横尾さんが追い込まれないと仕事をしないのは、みなよく知っていると思うが、それでも、ヒイヒイ言いながら、最後まで仕事をしているのが横尾さんである。

■花嫁の“父”
まるで花嫁の父の写真が出てきたので、一言。このにやけた写真を見て欲しい(写真JF890219;1989年2月19日)。をいをい、結婚するんは、あんたじゃねぇよ、って言いたくなるよね。

■“議論より実践”
天文教育普及研究会に関連した話は水野さんが詳しく書くはずなので、これも一言だけ。ぼくが研究会の総会にはじめて参加したのは、第3回(軽井沢)のときだが、みなさん、ほんと熱心だった。悪いことではないのだが、ただ(ぼくからみても)少し熱心過ぎるというか、夜まで(まじめに酒なしで)白熱した議論が続くのだ。これは、たしかに、しんどいよなぁ。第3回のときも、研究会が立ち上がったばかりで、夜遅くまで大部屋で会則を議論しているのを尻目に、横尾さんを中心に関西の人間は別室に移動し、酒盛りが始まった。 <議論より実践> これはいまも変わらない。

第4回の研究会は西はりまで開催された(写真JF900730;1990年7月30日)。このときは、たまたま訪日したJufu Luちゅうオッサンの面倒を見ていて(日本に来るなら円ぐらい持って来い! 思い出したら腹立ってきたぞう)、西はりまにも連れていったのだが、横尾さんにも随分お世話になった(ま、ちょっといろいろあって、はは、さすがに書けない)。こっちも研究会の世話で忙しい中、退屈していたLuを横尾さんがドライブに連れていってくれて、大変助かった思い出がある。どんな相手にも、気配り心配りを忘れない横尾さんである。

■横尾つながり
大阪市立科学館が中ノ島に移転再生して、四ツ橋にあった旧電気科学館が閉館するときのことだ。若いころ何度もプラネタリウムを見に来ていて縁の深かった故手塚治虫が、黒田さんの尽力もあり、最後の記念講演に来たのである。講演のチケットは、実はかなり倍率が高かったみたいだが、“横尾つながり”で手に入った。いやぁ、このときは、大阪教育大学に就職してよかったと思ったもんである(^^; プラネタリウムのドームでの講演は、ほんと感銘するもので、それだけでも十分よかったのだが、それで終わる横尾さんではない。講演後、ズカズカと来客室に乗り込む横尾さんであった。お、やった、と思いながら、おそるおそる付いていったのはボクである。来客室では、黒田さんが手塚治虫と(他の2人とともに)一休みしていた。横尾さんとぼくが闖入していくと、黒田さんは少し困ったような顔をしたものである。しばし世間話をした後に、さらに、横尾さんが10枚も色紙を出すに至り、はっきり迷惑そうな顔をした。いや、まぁ、そりゃそうだと思う。というのも、横尾さんは(ぼくも)サインだけだと思っていて10枚も出したのだが、手塚治虫のサインは絵だとは知らなかったのである。 でも、手塚治虫は、すごかった。イヤな顔一つせずに、全部の色紙に、サラサラとキャラクターの絵を描いてくれた。それも全部違うキャラクターを。神業を見た一同は唖然呆然だった。ちなみに、このときのサファイアが描かれた一枚は、ぼくの宝となっている(ぼく自身も、ゴッドハンドと握手し、サインをもらい、写真も一緒に撮ってもらった)。

あ、やっぱり一言だけ書いておこうかな。横尾さんと手塚治虫は縁がなかったわけじゃなくて、横尾さんの実家が池田にあったときに、実家に手塚治虫が遊びに来たこともあるそうだ。だからまぁ横尾さんも、そんなに図々しい訳じゃなかったのである。

■ヨ○ヲスキャンダル?
このネタは、ちょっとヤバイかな? まぁ、でも、もう10年も前だから、時効だよね。かつて地学に赤塚久兵衛という名物教授がいた。その久兵衛さんが退官するときに、地学のスタッフだけで慰労会を開いたときのことだ。名前は忘れたが天王寺の中華料理店で美味しい料理を食べた。その後の話である。何でそんなことになったのか、はっきりとは覚えていないけど、若いときに(横尾さんが)久兵衛さんにストリップに連れていってもらったとかいう話が出て、“えっ? ぼくは(横尾さんに)連れていってもらってないですよ”なんて言ってたりしてるうちに、いつのまにか、久兵衛さんに率いられ、横尾・ぼく・石井さんがあの有名な□○△スキャンダルに入っていた。□○△スキャンダルはストリップではないのだが、コーヒー一杯が結構なお値段のする(久兵衛さんが払ったからいくらかは知らないが)お店である。日頃はまず見ることのできない、大道芸に勝るとも劣らない大衆文化の一端を垣間見た思いだった(いや、これは洒落でなく凄かった)。これも横尾つながりの一つの事件である。

■星占いでたぶらかす
久兵衛さんと言えば、星占い事件を思い出してしまった。これは、横尾さんが、その専門的知識を悪用し、久兵衛さんの独特のキャラクターを撒餌に、その飄々とした風貌とやさしい口当たりでもって、多くの女学生を誑かした事件である。歴史の生きた証人、つまり指をくわえて見ているだけだった人間として、ここにその記録を留めたいが、紙数もないので次回に回そう。まぁ、後、5年ぐらいの間には、ぼくもあの技を習得したいと考え日夜努力を続けているが、なかなか横尾さんの域には達しない。

■天王寺お別れ会
柏原キャンパスが完成して天王寺を引き払う年の暮れ、天文研OBに案内状を出して、桜美琴で「天王寺キャンパスお別れ会」を開いた。それ以前にも卒業生名簿は少しずつ作ってはいたが、このときは大々的に調査して卒業生名簿を作成し、絵の上手かった上原−旧姓清水−美保さんに表紙を描いてもらって、印刷配布した。写真はそのときの2次会のものである(写真JF921223;1992年12月23日)。これは寺田町駅前の邑(むら)という、カウンタしかない狭いカラオケスナックなのだが(実際このときは、椅子が足らなくて、嘉数と福江がカウンタの中に入った)、椅子の後ろの狭い通路で踊っているねん!!

邑は、オネエチャン(オバチャン)はケバイし、よくボルし、クリスマスのときは高くて不味い料理を押し付けるし、いいとこなしだが、でも何故か、2次会とかで、(邑の隣の母屋というオデン屋と共に)地学の関係者はよく使っていた。やっぱりカラオケがあったからかなぁ。何を隠そう、練習だと言われて、横尾さんにオーシャンゼリゼを5、6回続けて聞かされたのも、邑である。

■最近の一こま
最近の話題は誰かが触れるだろうから、写真だけ数葉紹介しておく。

研究室で撮影した卒業アルバムの記念写真(写真JF940000;1994年冬)。天文の学生が増え始めた頃。

完成した新望遠鏡の前で(写真JF940512;1994年5月12日)。横尾さんが、“女の子集まれ”と言って撮影。ぼくは横から頭を出して、後ろの方には高橋くんが幽霊みたいに写っている。

これは広木せんせの壮行会のとき(写真JF951020;1995年10月20日)。何故か広木せんせは写っていない。カラーで見ると、みな真っ赤に酔っている。

■国際フォーラム
ごく最近の話題も一つだけ。数年前、国際天文学連合IAUの総会が日本(京都)で初めて行われた。このとき、各国の天文教育への取り組みも議論し合おうということで、IAUの会期中に国際天文教育フォーラムを開催した。関西で行うということで、横尾さんを中心に実行部隊ができあがり、会場では作花さんにお世話になったり、当日は学生も多数手伝ってくれて、成功裏に終わったのは記憶に新しい。ま、それはともかく、一葉の写真がある(写真JF970828;1997年8月28日)。半田さんの連れてきた女の子たちと仲良く写真に収まる横尾さんである←人のことは言えんやろ。

しかし、横尾つながりで、近畿大学のときの学会開催はもちろん、天文教育の研究会、大阪であった地学教育学会(あ、この話、誰か書くのかな?)、京都の国際フォーラムなど、いろいろ手伝わせてもらった。そのときそのときは、目の回る忙しさにじっくり味わう暇もなかったが、思い起こせばそれぞれに懐かしく、とてもいい経験をさせてもらったものだ。

■横尾の輪(和)
横尾さん自身から学んだことは、とてもここで書ききれるものではないし、改めて記すまでもなかろう。しかし、横尾さん自身はもちろんだが、横尾つながりというか“横尾の輪”ともいうべき人間的なつながりも、言葉や形には表せない貴重なモノである。さらにまた、みな知っているように、横尾の“輪”は、また同時に横尾の“和”でもある。 もし横尾さんに出会わなければ、おそらく、いまよりずっと狭くてツマラナイ世界に生きていたと思う。そしてまた同時に、いまよりずっと刺々しくて荒涼とした世界だったとも思う。現在、ぼくが豊かで実りある世界に生きていることに対しては、横尾さんには深く感謝すると共に、今後も、横尾の輪(和)を広げていって欲しいと願いつつ、ファイルをセーブしよう。


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