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ハッブル定数は定数なのか

Hubble tension
ハッブル定数の推定値のまとめ
(Verde, Treu, & Riess (2019))

遠方の銀河には距離 r と後退速度 v との間に v = H・r の比例関係があるとするハッブル・ルメートルの法則において,時間依存の比例定数 H はハッブルパラメータと呼ばれ,特に z << 1 の宇宙における H = H0 は現在の宇宙の膨張率を表す「ハッブル定数」として宇宙論の基本パラメータとなっています.エドウィン・ハッブル1929年に出版した論文における H0 の推定値はおよそ 500 km/s/Mpc でしたが,その後20世紀の終わりまでに50〜100とされました.

ハッブル定数を推定する方法は多数ありますが,これまでのところ最も高い精度で求められた方法のひとつは,宇宙論の標準モデルである「宇宙項と冷たい暗黒物質 (Lambda cold dark matter = ΛCDM) モデル」を仮定し,宇宙マイクロ波背景放射 (cosmic microwave background radiation = CMB) の異方性から導くやり方で,2018年に CMB 観測衛星 Planck の測定データから H0 = 67.4±0.5 と見積られています (右図のPlanck).一方,実際の銀河の距離の観測精度を高めてゆく方法も改訂が進んでおり,いくつかの独立の推定方法から72〜76と見積られています.たとえばハッブル宇宙望遠鏡を使って2018年に改訂された宇宙の距離はしご (年周視差 + セファイド変光星 + Ia型超新星を組み合わせた距離の精密測定) にもとづけば H0 = 74.0±1.4 となっています (右図のSH0ES).

これらは双方とも正しいと思われる一方で,有意な齟齬があり誤差範囲でも溝を埋められないため,Hubble constant tension (ハッブル定数の推定における緊張関係) と呼ばれています. ただし CMB を用いる方法はビッグバンから約38万年後の初期宇宙の姿を用いて推定される値 (右図のEarly) であるのに対し,銀河の距離から導く方法は比較的近傍つまり比較的最近の宇宙での値 (右図のLate) である点に注意が必要です.この齟齬をそのまま受け入れると,現在に近い時代の局所宇宙の膨張速度は9%速まっていることになり,この変化を説明するには宇宙膨張を加速させる暗黒エネルギー (dark energy) の寄与が現在の見積りより強いか,時間とともに変化する状況を考える必要があります.あるいは,光速に近い速度を持つ未知の粒子による影響や,暗黒物質 (dark matter) の相互作用が重力だけでなく電磁波にも及んでいる説などが提案されています.ただいずれの説も,もし正しければ宇宙の組成が変わることになり,宇宙論の ΛCDM 標準モデルに未解決の問題が存在していることを意味します.なお CMB を用いた推定には上記のように,最も尤もらしいとされる ΛCDM モデルとはいえ仮定が入っていること,またIa型超新星を標準光源とする観測には弱い重力レンズ効果や天体の特異速度が影響しているのではないかとの指摘もあります.さらにややこしいことに,銀河内で最も明るい赤色巨星 (tip of the red giant branch) を標準光源とする距離測定からは Planck と SH0ES のちょうど中間的な H0 = 69.8±1.9 と推定されており,どちらとも微妙に合いません (右図のCCHP).ただしこの推定値についても,大マゼラン雲での赤色巨星の較正において,銀河ハローではあまり問題とならないダストの見積りに不備があるのではないかとの指摘もあります.

結局のところ,専門家の議論でもない限り,現状ではハッブル定数は「だいたい70くらい」としておくのが賢明と思われます.

なおハッブル・ルメートルの法則,すなわち遠い銀河ほど大きな速度でいっせいに遠ざかっている事実は,宇宙が一様に膨張している証拠と考えれば説明できます.この観測事実と理論的解釈を最初に指摘したのは,カトリック司祭でもあるジョルジュ・ルメートルでした.ルメートルは一般相対性理論の方程式の膨張宇宙解 (フリードマン解) を独自に導き,銀河の後退速度は距離に比例すること,また42の銀河の文献値を利用して比例定数を625と推定しました.ところがルメートルが1927年に出版した論文はフランス語で書かれ,英語圏の人があまり読まない『ブリュッセル科学会年報』に掲載されていたため,ほとんどの研究者には知られていませんでした.そのためこの法則は長い間ハッブルの法則と呼ばれていましたが,2018年に国際天文学連合によりハッブル・ルメートルの法則と呼ぶことが推奨されました (スティグラーの法則).

補足として,局所銀河群のようにごく近所の銀河では,宇宙膨張よりも重力の効果が大きく,天の川銀河へ近づく運動も示します.たとえばアンドロメダ銀河 (M31) は天の川銀河に接近しつつあり,約45億年後に天の川銀河と衝突・合体することでひとつの巨大楕円銀河になると考えられています.ちょうど太陽が寿命を迎え白色矮星になる頃ですね.


松本 桂 (大阪教育大学 天文学研究室)
e-mail: katsura@cc.osaka-kyoiku.ac.jp