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七夕は、縁起の良い陽数とされる奇数が連なる五節句のひとつで、7月7日の夕べに行われるため七夕の節句となりました。後漢時代の古代中国の詩集『古詩十九首』にある織女と牽牛の星伝説が起源とされています。後に裁縫の上達を願う乞巧奠 (きこうでん) が混ざり行事化し、貴族が手芸、詩歌、管弦楽、文字などの上達を願い、梶の葉に文字を綴るようになりました。
この七夕行事は奈良時代に遣唐使によって日本へ伝わったとされています。その際に、日本古来の棚機津女 (たなばたつめ) の信仰が混ざり、棚機 (たなばた) と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣 (かみこ) を織りあげる話から七夕 (しちせき) を「たなばた」と読むようになったようです。江戸時代には書道や学問の上達を願う行事となり、現在のような短冊に願い事を書く笹飾りになりました。五色の短冊は五行説にあてはめた緑・紅・黄・白・黒からなっています。
そして星伝説としての七夕の星、織女星と牽牛星はそれぞれ、こと座の1等星ベガと、わし座の1等星アルタイルです。この2つの星と、はくちょう座の1等星デネブを結んでできる形は夏の大三角と呼ばれ、夏の星座を探す目印として使われます。
ところで7月7日はまだ梅雨が明けておらず、星空は期待できません。また七夕の星である夏の大三角は、宵の口ではまだ東空の低い位置にあり見やすいとはいえない時期です。ではなぜ星伝説でもある七夕の日がそんな時期となっているのでしょうか?
本来、七夕行事は旧暦の7月7日に行っていた行事であり、その日は現在のカレンダーの7月7日とは異なります。明治5年に旧暦 (太陰太陽暦である天保暦) から現在の新暦 (太陽暦であるグレゴリオ暦) へ切り替えた際に、明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、明治5年の12月を無かったことにしたため、旧暦と新暦で約1ヶ月のずれが生じました。したがってそれ以前は現在の8月に相当する時期に七夕行事をしていたことになります。
(さらに余談) なぜ暦を切り替えるタイミングで12月を無かったことにしたかといえば、当時の政府は西欧化を進めており、江戸時代に年俸制だった公務員の給与を西欧にならい月給制にした一方、財政難に困っており、明治5年を11ヶ月にすることで1ヶ月分の給与を支払わずに済むようにしたそうです。
では現在のカレンダーでいつが旧暦7月7日に相当するかは、年ごとに異なります。なぜならカレンダーの作り方である暦が根本的に異なるため、旧暦と新暦の日は一対一に対応しないからです。太陰太陽暦では、新月の日をその月の一日 (ついたち) とし、月の満ち欠けの周期 (約29.5日) を1ヶ月とします。その結果、ある月の「日付 = 月齢−1」の対応が常に固定されます。旧歴では7月7日は必ず月齢6の月が南西の空に見える秋の日になります。この日が現在のカレンダーでいつになるかは次のように定義されます。
二十四節気の処暑 (太陽黄経が150度になる瞬間) を含む日またはそれよりも前で、処暑に最も近い朔 (さく = 新月) の瞬間を含む日 (旧暦で7月1日に相当) から数えて7日目。
この定義にあてはまる日は現在のカレンダーではおおむね8月のどこかに該当し、すっかり梅雨が明けた夏の日であり星空が期待できました。また夏の大三角も見やすい時期となっています。つまり七夕行事にもってこいの日となる訳です。この旧暦で7月7日に相当する日を伝統的七夕の日と呼ぶことがあり、現在のカレンダーでどの日になるかはインターネットなどでも調べられます。
2025年は8月29日が旧暦の7月7日に相当します。この日に七夕行事を楽しむのも良いと思います。
松本 桂 (大阪教育大学 天文学研究室)