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遠方の銀河には距離 r と後退速度 v との間に v = H・r の比例関係があるとするハッブル・ルメートルの法則において、時間依存の比例定数 H はハッブルパラメータと呼ばれ、特に赤方偏移 z << 1 の宇宙における H = H0 は現在の宇宙の膨張率を表す「ハッブル定数」として宇宙論の基本パラメータとなっています。エドウィン・ハッブルが1929年に出版した論文における H0 の推定値はおよそ 500 km/s/Mpc でしたが、その後20世紀の終わりまでに50〜100とされました。
ハッブル定数を推定する方法は多数ありますが (図1)、これまでのところ最も高い精度で求められた方法のひとつは、宇宙論の標準モデルである宇宙項と冷たい暗黒物質 (Lambda cold dark matter = ΛCDM) モデルを仮定し、宇宙マイクロ波背景放射 (cosmic microwave background radiation = CMB) の異方性から導くやり方で、2018年に CMB 観測衛星 Planck の測定データから H0 = 67.4 ± 0.5 と見積られています (図2のPlanck)。一方、実際の銀河までの距離測定からハッブル定数を算出する方法も観測精度が向上しており、いくつかの独立の推定方法により72〜76と見積られています。たとえばハッブル宇宙望遠鏡を使って2018年に改訂された「宇宙の距離はしご」(年周視差 + セファイド変光星 + Ia型超新星を組み合わせた距離測定) に基づけば H0 = 74.0 ± 1.4 となっています (図2のSH0ES)。
これらは双方とも妥当な推定と思われる一方で、有意な齟齬があり誤差範囲でも溝を埋められないため、Hubble constant tension (ハッブル定数の推定における緊張関係) とか Hubble tension と呼ばれています。ただし CMB を用いる方法はビッグバンから約38万年後に宇宙を満たしていたプラズマが中性化した時の宇宙の姿を用いて推定される値 (右図のEarly) であるのに対し、銀河の距離から導く方法は比較的近傍つまり比較的最近の宇宙での値 (右図のLate) である点に注意が必要です。たとえばこの齟齬をそのまま受け入れると、現在に近い時代の局所宇宙の膨張速度は9%速まっていることになり、この変化を説明するには宇宙膨張を加速させる暗黒エネルギー (dark energy) の寄与が現在の見積りより強いか、時間とともに変化する状況を考える必要があります。他にも現状の物理の大枠は変えることなく (あるいは新しい物理理論の導入も含め) この齟齬を解消するための解決策として様々な仮説が提案されています。それにより、もし宇宙の組成などが変わることになれば現在の宇宙論に未解決の問題が存在していることを意味します。なお、どちらの推定値も基本的に正しいと考えつつ齟齬を説明したり解消させる可能性が模索されている一方で、そもそも推定値になんらかの不備があるのではなかろうかとの考えもあります。たとえば CMB を用いる推定には、現実の宇宙を良く説明できるため尤もらしいとされている ΛCDM モデルとはいえ、いくつかの理論的な仮定や、光子とバリオンが分離した時点の sound horizon 半径などのパラメータに不定性が内在しています。またIa型超新星を標準光源とする推定には、距離はしごの信頼性や、超新星の観測データに弱い重力レンズ効果や天体の特異速度が影響しているのではないかとの指摘もあります。さらにややこしいことに、銀河内で最も明るい赤色巨星 (tip of the red giant branch) を標準光源とする距離測定からは Planck と SH0ES のちょうど中間的な H0 = 69.8 ± 1.9 と推定されており、どちらとも微妙に合いません (図2のCCHP)。ただしこの推定値についても、大マゼラン雲での赤色巨星の較正において、銀河ハローではあまり問題とならないダストの見積りに不備があるのではないかとの指摘もあります。
結局のところ、専門家の議論でもない限り、現状ではハッブル定数は「だいたい70くらい」としておくのが賢明と思われます。また断りなく2桁以上の有効数字を使う解説などがもしあれば、それを額面通りに受け取るのは危険というか用心が必要と考えて良いでしょう。具体的な値を用いる場合にはなんらかの説明が必要となります。
なお遠い銀河ほど大きな速度でいっせいに遠ざかっている事実は、宇宙が一様に膨張していると考えれば説明できます。この観測事実と理論的解釈を最初に正しく指摘したのは、カトリック司祭のジョルジュ・ルメートルでした。ルメートルは一般相対性理論の方程式の膨張宇宙解を独自に導き、銀河の後退速度は距離に比例すること、また42個の銀河の文献値を利用してその比例定数を625と推定しました。さらに宇宙のはじまりについて現在のビッグバン理論に通じる考察を行いました。その意味では、あくまで観測事実の記述に留めておいて解釈には踏み込まなかったハッブル以上の業績を残したと言えます。ところがルメートルが1927年に出版したその論文はフランス語で書かれ、英語圏の人があまり読まない『ブリュッセル科学会年報』に掲載されていたため、ほとんどの研究者には知られていませんでした。そのためこの法則は長い間「ハッブルの法則」と呼ばれていましたが、2018年に国際天文学連合によって「ハッブル・ルメートルの法則」と呼ぶことが推奨されました (いわゆるスティグラーの法則)。
補足として、局所銀河群のように宇宙全体のスケールに照らせばごく近所に位置する銀河では、宇宙膨張の影響よりも重力による束縛の方が大きく効くため (すなわち Hubble flow に乗っていない状態であるため)、ハッブル・ルメートルの法則は全く成立しません。たとえばアンドロメダ銀河 M31 と天の川銀河は接近しつつあり、約45億年後に衝突・合体することでひとつの巨大楕円銀河になると考えられています。ちょうど太陽が寿命を迎え白色矮星になる頃ですので、人類の子孫がその光景を見るためにはなんらかの手段で太陽の赤色巨星期を生きのびる必要があります。
松本 桂 (大阪教育大学 天文学研究室)